第15話 寝巻きにボサボサ頭で(回想)

 微睡んでいたレイフは、名前を呼ばれていることに気がついた。しかし身体は眠っていて、目を開けるのも億劫だ。


「レイフ、眠っているか?」


 ベッドの反対の端に寝ていたはずの王太子が、少し隔てたすぐそばにいるのを感じる。

 多忙な王太子は、この部屋を抜け出そうとしているのかもしれない、とレイフは半分眠った頭で無根拠に考える。そうだとすると、返事をすれば引き止めてしまうだろう。

 目を閉じて返事をしないままでいると、彼はそっとレイフに身体を寄せた。そのまま、背中の側からレイフを抱く。王太子の腕1本分の隙間を開けて、スプーンを重ねるようにぴったりと腕の中に抱かれる。王太子がうなじに顔を埋めるのがわかる。思わずレイフは目を開けた。今日は満月に近い月なのだろうか。月明かりが部屋を優しく照らしている。

 優れた武人でもある王太子が、これだけ密着していて、レイフの僅かな動きや筋肉の緊張に気づかないわけはなかった。それでも王太子は何も言わず、指を絡めてレイフの手を握った。


(眠るどころじゃないんだけど!?)


 かと言って身動きもできず、レイフは困り果てる。王太子はなんでもないことのように、レイフをその腕の中に捕らえている。

 うなじにかかる、王太子のゆっくりした深い吐息。腕の重み。それらに意識を向けていると、小さな子どもに戻ったような気がしてくる。温かな安心感が胸に満ちてくる。守られている。

 誰かのぬくもりを感じながら眠るなんて、いつ以来だろう…。


 ハッと気がつくと、寝室には朝日が差し込んでいて、王太子がレイフの顔をじっと覗きこんでいた。その顔に浮かんでいるのは甘い微笑み、ではなく驚愕だった。


「びっくりした」


 レイフの言葉に王太子は苦笑した。


「それはこちらの台詞だ。夜襲を受けた兵士のような目覚め方だな」


「見られてる気配がしたからびっくりしただろ。おどかすな」


 王太子は寝覚めのレイフの身体を抱き寄せる。


「目覚めの気分は?」


「良くも悪くもない。普通だ」


 そう言いながら、レイフは大人しく王太子の腕の中に抱かれる。


「それはいいことだ」


 そう言って王太子はレイフの頭頂部のあたりに頬をぐりぐり押しつける。


「まだ部屋にいるとは思わなかった」


 率直な気持ちを言うと、王太子は不思議そうな表情でレイフの顔を見た。


「なぜ?」


「忙しいんだろ? 夜中のうちに執務室に戻っているんじゃないかと」


 その言葉を聞いて王太子はくすくす笑う。


「なんだ、気を遣っているのか。レイフのくせに」


「くせに、ってなんだよ」


 むくれるレイフを王太子はもう一度腕の中に閉じこめる。


「大丈夫。私はおそろしく仕事ができるからな。今日という日を見越して調整済みだ」


「精霊に押しつけただけだろ」


「ばれていたか」


「お見通しだ」


 2人は抱き合ったまま笑った。


「だが、執務を調整したのは本当だ。本来踏むべき手順は踏んでやれなかったが、今日は1日一緒にいられる」


「ふうん」


 レイフはそっけなく言って、目を閉じて王太子の胸元に顔を擦り寄せた。上になっている方の腕を、おずおずと王太子の背中に回し、軽くシャツを掴む。


「ありがとう、守ってくれて」


「なに、どうということはないさ」


 長い指でレイフの髪を梳く。レイフは小さく首を振った。


「口で言うほど簡単じゃないの、わかってる。ありがとう、王太子」


「名前で呼んでくれないか、レイフ」


 王太子は少し身体を離すと、悪戯っぽく笑ってレイフの顔を覗き込んだ。

 レイフは王太子の顔を見上げた後、視線を外して小さな声で言った。


「ありがとう、アールト」


「これくらい、なんでもない。私を選んでくれてありがとう、レイフ」


 驚いて顔を上げたレイフの唇に、王太子の唇が柔らかく重なる。王太子がレイフの腰を強く引き寄せたその時、扉が遠慮がちにノックされた。

 レイフの肩が驚きに跳ねあがり、身体が硬くなる。


「何事だ」


 王太子が鋭く言う。執務を行っている時の声だ。

 扉の向こうから聞こえてきたのは、男性の声だった。この魂は、王太子の秘書官で確かディクスという名だったはず。


「申し訳ございません、殿下。大寺院からお使者が参りまして、殿下にお目通りを願っております。日を改めるようエーレーン大臣が求めたのですが、どうしてもと…。申し訳ございません」


「わかった、行こう。謁見室で待たせておけ」


「かしこまりました」


 秘書官が去っていく気配がする。


「来るだろうと思っていたが、こんな朝早くに押しかけてくるとはな。つくづく無粋な者たちだ」


「私のことで…」


「大方昨日の文句と、レイフをよこせと強請りに来たのだろう」


 王太子は仕方ないと言った風に腕を解いて身体を起こした。


「さあて。朝から戦争とは、血が騒ぐな」


 口の端を吊り上げて笑う王太子は、とんでもない悪戯を思いついた少年のようだった。


「待ってくれ、私も行く」


 レイフも慌てて起きあがる。


「嫌な思いをするぞ? 構わないからここにいろ」


「だめだ。王太子に汚れ役はさせられない。私が言う。これは、私が望んだことだ、王太子は私の望みを叶えただけだって」


 王太子は無言でレイフを見下ろしていたが、不意にレイフを抱き寄せると、鎖骨の少し上の首筋にくちづけて強く吸った。


「ひゃ…っ」


 少しの痛みと、くすぐったさとは違う甘い痺れ。


「よし、これでもっともらしくなったな。見せつけてやろう。泡を食ってひっくり返るぞ、きっと。楽しみだ」


 王太子はにやにや笑う。


「??」


 何を言われているのかわからず、レイフはくちづけられた場所に指で触れたが、特に異変は感じられない。


 居室に移動すると、そこには何故か僧侶がいた。まだ夜着でいるところに知らない人物がいてバツが悪い。


「ご夫婦の宣誓を見届けさせていただきます」


「え!?」


 レイフは驚いて王太子を見上げる。なんだかこの前から驚いてばかりだ。


「夫婦となったからには宣誓をするのは当然だろう」


 王太子は大真面目な顔で言う。

 なんだかもう、よくわからないことだらけだ。

 王宮付きだが普段は従軍して負傷者に治癒法を施すことを主に行っているという、その僧侶の祈祷を呆然としながら聞くともなく聞く。精霊使い同士の結婚では、僧侶の立ち合いはない。世間一般の結婚を見るのは初めてだった。自分の結婚式だが。


「ここに、お2人がご夫婦となられたことを認めます。宣誓書にサインを」


 テーブルには、王家の者だけに使用が許される、王家の紋章が透かしで入れられた宣誓書が乗っている。いつの間に。王太子がそこにサインしようとするのを見て、レイフは突然声を上げて笑いはじめた。

 怪訝そうに振り返る王太子に、息も絶え絶えになりながら言う。


「だって、はは、おかしいだろ。どこの世界に、ふふ、寝巻きにボサボサ頭で宣誓書にサインする、ふふ、奴がいるんだよ。あはは、頭おかしい。王太子も、私も」


 つられて王太子も笑う。


「真面目な場面で笑わせるな。署名が乱れる」


「あはは、もうだめ。なんなんだよこれ」


 夜着にぼさぼさ頭で、僧侶の他に見守る者は侍女のカーラだけの、おそらく世界一奇妙な王族の結婚式は、あっという間に終わった。その場にいる全員が笑っていた。

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