19、薬師

 バシャン、バシャンと水が大きく跳ねる。

 何度やっても大人しくしていない。最初は声掛けをしていたが、もはや無言で燕と格闘する様は傍から見れば異常と言われるかもしれない。


 「・・・ねえ、もうそれ、諦めれば?」


 振り向くと、木陰に敷いた茣蓙の上で先ほどまで微睡んでいた響楽キョウラクが書物片手に大きく欠伸をしていた。


 「諦めないし、諦めない」

 「なんで二回も言うのさ」

 「大事なことだからに決まっているでしょ。そんなことより、見ているだけなら手伝ってよ」


 半眼で睨めつけるも、同じ顔のせいか、それとも慣れっこのせいか全く怖がる素振りを見せない。それが悔しくてぷくっと頬を膨らますと、今度は響楽がむっと眉を寄せる。書物を置き、つかつかと歩いてきたかと思うと、両手で頬を挟まれた。それが地味に痛く、いっ、と変な声をあげてしまう。


 「・・・あのさ、わかっていると思うけど葉楽ヨウラクは顔は良いんだからもっと危機感を持って。どこでどんな男が狙っているかもわからないんだよ。外で可愛い顔はしない。わかった?」 


 ちょっと同じ顔に向かって何を言っているのかよくわからないが、今は中央にじわじわと寄ってきている顔をなんとかしたい。

 小さく頷くと仕方ないとばかりに手を離してくれた。

 

 「だいたい、この間も街で変な男に引っかかったんでしょ?蛍順ケイジュンがぼやいてたよ」 

 「引っかかってないから。いちゃもんつけられたお婆さんがいたから、助けただけよ」

 「ふーん、男たちに蹴りを入れて?」

 「・・・・あれは正当防衛よ」


 秘密にしてとあれほど約束したのに、乙女の契りを何だと思っているのだ。


 「まあ、に何もなくてよかったよ」

 

 馨楽が笑う。

 何を白々しい。初めから心配しているのは私ではない方の癖に。


 「何言ってるの。あなたよりもずっと頼りになる二人よ」

 「それを言われると結構傷つくんだけど」

 「だったらもっと鍛錬なさい。あと、話し方。わたしよりももっと馨楽の方が危険だと思うけど?」

 「ッ・・・・わかっている、わ」


 威勢の良かった響楽がしゅんとわかりやすいように肩を落とす。

 さすがに意地悪しすぎたかと思ったが、事実、それを知る者はかなり限られているのだから仕方がない。

 どちらも口を閉ざし、やや気まずい空気が流れる。


 「ツピィ」


 その空気を払拭するかのように、葉楽の小脇に抱えられていたヘキが一鳴きする。

 

 「あら、やっと大人しく水浴びする気になったの?」


 にやりと笑うと、碧がぶんぶんと首を左右に振る。その仕草は相変わらず人間みたいで面白い。


 「・・・あのさ、もしかして水が冷たいんじゃない?」

 「冷たい?」


 たしかに今は晩秋で気温も低くなってはいるが・・・。


 「燕って冬は水浴びしないの?」

 「いや燕って元から水浴びはしないと思うけど・・・それにその子、愛玩ペットだったかもしれないんだ・・・のでしょう?だったら、室内で冬はお湯で水浴びしていた可能性もあると思うの」

 

 馨楽の言葉に、ふむと頷く。

 たしかにその考えはなかったが、一理ある。今まで湯で洗ってもらってたのであれば、水を嫌がる理由としては納得がいく。


 「・・・わかったわ。湯を準備してくるからここで碧と一緒に待ってて」

 

 たしか蛍順がこの時間は鍛錬場にいるはずだ。先ほどのことも問い詰めなければならないし、ついでに手伝ってもらおう。


 「あ、それならわたしが行くわ」

 「・・・・そう。じゃあ、お願いね」


 珍しく張り切っている姿を見ると、あれはしばらく帰ってこないな。

 手持ちの手拭いで自身と碧の濡れた場所を拭き取り、休憩とばかりに抱えたまま茣蓙に寝転がる。たしかにずっと動いたので気付かなかったが、じっとしていればこの気候は寒いかもしれない。

 少し午睡しようかな。

 ちょうどいいところに準備されていたひざ掛けを手繰り寄せ、そのまま包まる。碧はなんだか不満げな声をあげているが、せっかくの湯婆子ゆたんぽを手放す愚か者はいないだろう。


 「ちょっと我慢して一緒に寝ましょう」


 碧の返事を聞く間もなく目を閉じた葉楽は、すぐに深い眠りへと落ちていった。




 

 宝貴妃の宮に招かれてから数日が経った日の早朝、戸を叩く音で葉楽は目を覚ました。

 最近気付いたのだが、これまで目覚めが悪かったのはどうやら熟睡できていなかったらしい。たしかによく夢を見る方ではある。ただ、それがどんな夢かは一向に覚えていない。


 「・・・殿下、起きてください。たぶん英清エイセイが来ています」


 まだ眠りの世界から戻ってこれていない鴻雲の肩を揺らすも、ん、と小さく声を漏らすだけで全く起きる気配はない─仕方がない。


 「どうぞ、入って」


 葉楽の呼びかけと共に戸が開く。

 そこには予想通り英清と─想定外の鶴心の姿があった。


 「燕妃さま、朝早くから申し訳ありません」


 断りを入れたかと思うと、そのままツカツカと寝台に歩み寄り、思いっきり布団を剥いだ。そしてついでにと御簾をあげる。一気に光が入ってきて明るくなり、まだどこかはっきりしなかった葉楽の頭も一気に覚醒する。

 そして肝心の鴻雲はというと、目を閉じたまま眉を寄せ、険しい顔でううんと険しい顔で唸っている。

 散々人のことを馬鹿にしておいて、今では完全に立場が逆転しているではないか─いや、この場合訪問者たちが早すぎるのかもしれないが。


 「昨晩はよく眠られましたか?」


 鴻雲を英清に任せた鶴心がほんの僅かに目を細める。しばらく接してみて分かったことだが、鶴心は感情をあまり表情に出さない。だからほんの僅かだと思っても、それは普通の人間と同じくらいの変化である。


 「ええ、とてもよく眠れました。先日頂いた香のおかげかもしれません」

 「それを聞いて安心致しました。実はあれ、宝貴妃さま付きの薬師から預かった品でしたの」

 「貴妃さまが?」


 はい、と小さく頷く。


 「心配しておいででしたよ。これまでもしっかり眠れていなかったのではないかと」


 ここに師蝉シセンがいれば、冗談抜きでひっくり返っているだろう。そして葉楽の別名を鶴心にこれまでの逸話も交えて存分に披露するはずだ。

 さっさと故郷くにに返してよかった。

 つい二日ほど前、師蝉と数名の従者、使用人たちを馬車で送り出していた。理由は単純でここ数ヶ月では到底故郷に戻れそうもないと判断したからだ。

 師蝉の他に帰した者は子がまだ幼い者。この成長は驚くほど早いと聞く。それを間近で見られないことほど親にとって悲しいことはない・・・ということで、中には納得していない者もいたが送り返した次第である。


 「・・・寝具の違いでしょうか?」


 口に出してから思ったが、生家で使っていた寝具はここの寝具と比べても遜色はなく不満を持ったことはなかった。


 「環境の違いではございませんか?」

 「環境、ですか」


 たしかに違いといえばそれくらいしかないが・・・。


 「まだ着替え終わっていないのか」

 

 先ほどまで寝こけていた人物とは思えぬほどさっぱりした顔が視界に入る。


 「鴻雲コウウンさま、婦人は殿方と違って支度に準備がかかるのでございます」


 たぶさに簪を差し込んでいた鶴心カクシンが葉楽の代わりに返事をする。

 この一連の流れに抵抗を覚えていたはずなのに、一日、また一日と日を重ねるごとにすっかり慣れてしまっている自分の適応力には本当に驚かされる。


 『葉楽ならきっと遭難しても熊と一緒にうまくやっていけるわよ』

 からりと笑う姉の言葉に当時こそはそんな馬鹿なと呆れたが、あながち間違っていなかったのかもしれない。

 

 「そういえば、もう少しして鶉雨ジュンウがここに来るらしい」

 「・・・どなたですか?」


 聞いたことのない名に小首を傾げる。


 「宝貴妃付きの薬師だ。以前、こちらによこすという話をたしか俺はお前から聞いたぞ」

 

 たしかに話したが薬師の名前も知らなかったし、今の今まで完全に失念していた。


 「では殿下は昼に出られるのですか?」


 貴妃は鴻雲も診させると言っていた。

 最近の鴻雲は燕宮で朝餉を取りそのまま出仕している。皇族はふらふらしているものばかりだと思っていたが、実際はしっかりと仕事をしているようだ。


 「ああ。仕事が溜まっているのでさっさと行かねばならぬのは山々なのだが」

 「逃げたら貴妃さまがお冠ですものね」


 聞き慣れない声がした方を向くと、少女が立っていた。

 葉楽の宮では見たことのない顔だったので、鴻雲の宮の者だろうかと考えていると、少女はつかつかと葉楽の横に来て膝を折った。


 「お初にお目にかかります、燕妃さま。わたくし、芍艶宮シャクエンキュウ付きの薬師、オウ鶉雨と申します」

 「えっ・・・」


 思わず向かいの鴻雲を見る。


 「心配するな。見た目は若いが、中身は俺たちの何十倍も生きている」

 「あら、何十倍も生きていれば、それは化物か仙人でございましょう」

 

 にこにこと笑みを浮かべるが、その目の奥は笑っていない。しかし、笑みを向けられた鴻雲は素知らぬ顔で粥をすすっている。

 

 「まあ、冗談はさておき。燕妃さま、朝餉が終わりましたら早速診察致しますので、お声をかけてくださいませ。あと・・・」


 一瞬ちらっと横目で鴻雲を見たかと思うと、顔を耳に近づける。


 「以前の月の障りがいつからかなど記録がございましたら頂きたいのですが」


 記録はなんでもしっかりつける性格故、あるにはあるが─心配は無用である。何故なら、葉楽はまだ何も知らぬままなのだから。

 しかし、それをここで言うのは躊躇われる。淑女というには程遠いかもしれないが、一応これでも恥じらいくらいは持ち合わせている。


 「・・・わかりました。用意しますわ」

 「感謝いたします。それではまた後ほど」


 拱手した鶉雨は部屋をあとにした。

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