18、茶会

 ここ数日の全体を覆っていた鉛色が嘘のように綺麗に消え、代わりに広がるのは果てしない蒼穹だ。そのあまりに広さに故郷で見た海を思い出す。しかし、斜め下に視線をやればそこにあるのは海のほんの一部を象った大きな池だ。手入れされた草花と相まってその景色は息を呑むほどの美しさだが、それでも人工的に作り出されたもののため水にはどうしても淀みが生じてしまう。水とは常に流れ、動くものだ。


 「やはり燕国の茶は何度見ても美しいわね」

 

 透き通った張りのある声はまるで少女のようだ。


 「初音ハツネさまから貴妃さまがお好きだと伺いましたので、ご準備させていただきました」

 「あら、それは手間をかけさせてしまったわね」


 声だけではなくその仕草までもが、品があるのにどこか少女めいている。これが国中の美人という美人が寄せ集められた後宮で、数十年に渡って寵愛を独占している理由なのかもしれない。

 きっとホウ貴妃は見た目こそは老いたとしても、中身は皇帝が恋に落ちた時と変わらぬのだろう。


 「とんでもないですわ。むしろ玻璃の茶器をご準備いただいた初音さまにお手数をおかけしてしまいました」


 葉楽ヨウラクが準備したのは工芸茶と呼ばれる種類の茶だ。味はもとより、湯に入れた時にふわっと花開く様子が美しいため故郷では玻璃の茶器で楽しまれることが多かった。

 そこで茶会用にと工芸茶を早馬で送らせたところまではよかったのだが、さすがに玻璃の茶器は早馬で送るには心許なく、王都で入手しようと思ったが如何せん気に入るものがなく困り果てていた。

 妥協は時として必要だが、買物に関しては妥協したくない。

 そのため茶器は今回は普通のものを準備する旨を初音に文で伝えたところ、ちょうど他国から献上された玻璃の茶器があると快く貸してくれたのだ。おかげで上からだけではなく、外からを美しい花を眺めることができた。


 「そんな水臭いことおっしゃらないでください、姉上様。わたくしも同席する場ですもの、もっと気楽に頼ってくださいませ」

 「・・・お心遣い感謝いたしますわ」


 下に兄弟がいないため姉と呼ばれることに慣れていないせいか脇腹あたりがむずむずする。

 そんな葉楽の様子を知ってから知らずか、初音は頬を緩めると玻璃の茶器に手を伸ばす。


 「そういえば、あの夜はゆっくり書見を楽しめました?」

 「はい。非常に興味深い書物が多かったですわ」


 他国のものに関わらずどんなものでも売買している燕国で、圧倒的に流通量が少ないのは書物だ。

 というのも、燕の民は商人が多いため識字率が他国に比べて著しく高い。識字率が高ければ、それだけ書ける者も自ずと増えてくる。基本的に様々な人種が集まってできた国なので思想規制もない。どんな者でも筆一本あれば書物がかける環境のせいか書物だけは国内のものだけで常に飽和状態なのだ。

 また、書物には他国に知られたくない情報が載っていることも多いため、規制をかけている国が多くあるのもまたその理由のひとつだ。


 「ふふ、それは作った甲斐があるわ」

 「・・・作った?」


 意味深な宝貴妃の言葉に小首を傾げる葉楽。


 「ええ、あの書庫は元々母上が父上にお願いして作ったものなんですのよ」

 「え・・・あれをですか?」


 先日の光景を思い出す。

 所狭しと並べられた書物は草花の図録から伝奇に至るまで分野を問わず、その規模から国営のものだと思っていたが、皇族以外が宮城に入るためには何重にも許可が必要となる。言われてみれば国営であれば宮城内に作るとは考えにく。


 「まあ、あそこにある半分はわたくしの嫁入り道具ですから。置き場がなくて困っていたところを見かねた陛下が作ってくださったんですの」


 つまり半分は実家から持ってきたということか。

 宝貴妃の実家である宝鳥族は南都にほど近い場所に住む少数民族だ。後方は入り組んだ山、前方はよく時化る海というあまりよくない立地条件でも生きるため、大陸各地に拠点を設け、そこで得た情報を元に生き延びてきた種族だ。その諜報能力を高く評価した数代前の皇帝に重用されて以来、代々宝鳥族は史官として王朝に仕えている。正しい情報を得る者だけが、正しい歴史のみを編成していくことができるというわけだ。

 噂では宝鳥族の者は見聞を広めるためにこれまでの王朝が行ってきた施策を御伽噺のように幼子のころから読み聞かせ、ある程度の年齢になれば分野を問わずとにかく書物を読み漁ると耳にしたことがある。

 嫁入り道具ということはきっとまだ目を通していない書物を持たされたに違いない。そうなれば、あの書庫丸々一つ程度は軽く読んでいることになる。

 寵妃と呼ばれその容姿ばかりに目が行きがちだが、きっと宝貴妃の魅力はその図り知らない知識量にもあるのかもしれない。


 「本当に書物が好きなのね」

 「えっ、ええ。あ・・・妹には負けますが」


 危ない。ついいつもの癖で姉というところだった。


 「それならこれを譲るわ」


 宝貴妃が自身の腕についていた金の腕輪を取り外し、葉楽に渡す。

 普通の腕輪かと思ったが、何やら光の加減で模様が浮かび上がる。


 「・・・これは」

 「わたくしの花紋よ。皇帝の妃嬪になった暁には一人ひとつ花紋を貰えるの」


 なるほどと小さく頷き、再度角度を変えてみる。


 「牡丹ですか?」

 「いいえ、さすがにそれは気がひけるわ。わたくしの花紋は芍薬よ」

 

 見た目は牡丹と然程違いはなく、それでいてその根は痛みを和らげる薬として重宝される。ふと宝貴妃の物言いから牡丹は皇后の花紋なのかもしれないと思ったが、葉楽としては牡丹よりも芍薬の方が縁起は良いと感じる。

 牡丹は下ろす作用が強いので堕胎によく使われ、芍薬は反対に安産のためによく使われる生薬だ。現に宝貴妃は子宝に恵まれているが、皇后は子宝に恵まれていない。そしてそれ故に皇位継承順が未だに決まらぬという問題も抱えている。

 普通は皇后に子─特に男子がいればその子が間違いなく皇位継承権一位だ。しかし子がいないばかりに、様々な人間の思惑が入り混じりややこしくなっていた。


 『子ばかりは授かり物ですからなぁ』


 故郷にいた時の主治医の言葉を思い出す。子を宿す薬はないと医師ははっきりと言っていた。ただし宿しやすくするように体質を整える薬はあるとも。結局、こればかりは神のみぞ知る世界の話である。

 しかし、一体どんな話から子を授かるかどうかの話になったのだろうか。あの時は確か姉の馨楽キョウラクも共に話を聞いていたはずなのだが─。


 「・・・ッ!」


 ぎゅうと締め付けられるような、何かを縛っているような頭の痛みに顔が小さく歪む。


 「どうかしたの?」

 「・・・いえ、大丈夫です。少し頭痛がしただけですわ」


 何回か深呼吸をすると、頭の痛みはスッと引いていった。実は先日から何度か同じような痛みに襲われることがあった。

 疲れはあるものの体調は然程悪いと感じてはいないので、心因性ストレスだろうか。


 「宮廷医をお呼びしましょうか?」

 「いいえ、医師に見せるほどのことではございません」

 「でも・・・」


 やんわりと断るが、初音の顔色は冴えないままだ。それを見ていた宝貴妃がやんわりとなだめる。


 「初音、燕妃はきっと疲れが溜まっているんだわ。こちらも気付かずにお茶に誘ってしまってごめんなさいね」

 「いえ、そんな。とても有意義な時間でした。ありがとうございます」

 「そう言っていただけるとありがたいわ。そうだ、わたくしの宮に腕の良い薬師がいるから、また後日向かわせてもいいかしら?ついでにあの子も見てもらう口実にもなるし」


 あの子とは、鴻雲コウウンのことだろう。

 本当はそこまでしてもらわなくてもいいが、鴻雲を引き合いに出されれば断る理由はない。

 

 「お気遣い感謝いたします。殿下にもお伝えしておきますわ」

 「それは助かるわ。あなたには頭が上がらないだろうから」


 奴はどれだけ母親の前で猫を被っているんだ。きっと彼が頭が上がらないのは目の前の母娘くらいだろうに。

 そういうことにしておくことにしよう。これは一個借りである。


 「それでは失礼いたします」


 従者を連れて去り行く葉楽の後姿を見送る宝貴妃と初音。

 

 「・・・やっと、始まるのね」


 茶に口をつけていた初音が小首を傾げる。


 「え?母上何か言いましたか?」

 「・・・いいえ、なんでもないわ。それよりあなた、第一公主が夜に徘徊していたということはどういうことなのかしら?」


 そこには先ほどまでの天女のような慈愛に満ちた宝貴妃の姿はなかった。代わりに居るのは、礼儀作法に人一倍厳しい宝白鴛ホウハクエン、その人だった。

 こうなったら逃げられない。兄と一緒に色々やらかしてきた経験はすなわち母に絞られた回数に合致するのだから。

 今日はどれくらいで終わるのだろうか。

 まだ日が高い空を見て、晩餐はゆっくり食べれることを切に祈った。

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