17、進入
「こっちだ」
差し出された手を握ると、ぐんと体を引き上げられる。慎重に登ったつもりが瓦を蹴ってしまい、カシャンと小さく音が立つ。慌てて身を低く潜めた。
「・・・今何か音がしなかったか?」
「そうか?何も聞こえなかったぞ」
お願いだから早く行ってくれ。
しかしそんな
もしこの時点で見つかったらどうなるのだろうか。ちなみに故郷で王宮を抜け出し、こっそりと裏口から忍び込もうとしたが失敗に終わった際はそれから一月、自身の宮から出ることすら禁止された。そのあまりの退屈さに、めんどくさくて敬遠していた花嫁修行をほぼ完璧に習得してしまったほどだ。あんな思いはもう二度としたくない。
悶々としている葉楽の隣で何を思ったのか
「ニャー」
「・・・なんだ、猫か」
「おい、行くぞ。そろそろ交代の時間だ」
そう言うと兵士たちは足早にこの場を後にする。
彼らの姿が見えなくなったところで、ほっと小さく息を吐いた。
それにしても本物そっくりの鳴き声だった。この場に居合わせなければ、葉楽も猫だと勘違いしていただろう。
「もうすぐ交代の時間で空きができる。行くぞ」
「あ、ちょっ」
シュッと鴻雲の姿が消えた。下を見ると、すでに地面に降り立った鴻雲がこちらを見上げて待っていた。
まさかこの高さから飛び降りろと?
上背のある男三、四人程の高さだ。これも故郷にいた時のような楽な格好ならば葉楽も躊躇わないが、今はそんな動ける格好ではない。
「大丈夫だ、俺が受け止める」
「そっ、無理です!」
万が一どこか怪我でもさせたらえらいことになる。それこそ下手すれば国交問題だ。
「燕妃早くしろ!」
鴻雲が腕を広げる。
ええい、もうどうにでもなれ!
葉楽が屋根を蹴って飛び降りた。ふわりと
よかった、自分は無事だ。ところで殿下は─。
「こっちだ」
心配する葉楽を他所に何事もなかったかのように下ろした鴻雲は、本当に何事もなかったかのように走り出す。
その様子に呆気を取られていると、少し離れたところで鴻雲が振り返った。
「急げ、遊んでいる暇はないぞ」
篝火に照らされた顔は、怪訝そうな表情を象っていた。
怪我でもさせてしまったらと心配していたのが阿保らしくなってしまう。どうやら見た目以上に鴻雲は丈夫らしい。
葉楽は裙の裾を持ち上げると、鴻雲に追いつくべく小走りで足を進めた。
葉楽たちがいるのは、皇宮の北西に位置する
実は出発前からほんの少しばかり懸念していたのだが、案の定途中で疲れた雪兎が動かなくなり、格闘し続けた末に黄昏を過ぎてしまった。鴻雲の名前を出せば門を開けてもらえると思ったが、どうやら彼も内密に出てきていたらしい。そういった経緯から、誰にもバレないように宮に戻るためこうして鴻雲の古巣である慈光宮に忍び込んでいるというわけだ。
しかし、いくら勝手知ったる場所だとはいえ忍び込む鴻雲の手際の良さはこれが初めてではないことも物語っていた。
わたし達、結構似ているのかもしれない。
同じようにこっそりと抜け出していた身としては、変なところで仲間意識を覚えてしまう。
「・・・ここだ。燕妃、少し離れていろ」
ぱっと手を離され、同時にそそくさと距離を取る。
それを確認した鴻雲が足を大きく上げたかと思うと、蹴りを入れた。ドゴっと音を立てて壁の一部が外れた。
「抜け穴ですか?」
「ああ。万が一取り囲まれた時のためのな。瑞の皇族しか知らぬ」
ここに違う人間がいますけど。
突っ込みを入れたいのは山々だが、元はといえば
穴を抜けるとそこは建物の裏だった。一番近くの窓からは明かりは見えていない。
「ここは書物庫の裏だ」
「書物庫・・・!」
思わず声が弾んでしまう。
書物といえば故郷では皆双子片割れ
「・・・見ていくか?」
「良いのですか!?」
思ってもみなかった申出に、鼻息が荒くなる葉楽。
「まあ、少しくらいならば大丈夫だろう」
「っありがとうございます!」
嬉しさのあまり抱きついた葉楽を鴻雲が肩を押して即座に引き剥がす。
「・・・灯を探してくる。そこの端に隠れていろ」
そう言い残すと、さっさと何処かへ消えてしまった。
「・・・なんだ、あれは」
たしかにいきなり抱きついたのは悪いと思うが、そんな顔を背けなくてもいいだろう。だいたい、閨とはいえ先に抱きついてきたのはあちらだったのに・・・よくわからない。よくわからないことは考えても時間の無駄である。
無駄なことはしない主義の葉楽は頭の中から完全に先程の事を追いやり、書物庫の入り口付近をぐるぐると数周回った後、言われた通りに階段の端に目立たぬように蹲る。
立てた膝の上に頬を乗せる。体を小さく縮こませた状態のせいか、それとも今日の大移動のせいか瞼が急激に重くなってきた。気を抜けばそのまま寝入ってしまいそうだ。葉楽の特技の一つはどこでも眠られることだ。
これが王女ではなく、一兵卒だったらどんなに良かったか─とはいっても、現在燕はどことも刃を交えていないので、兵士だったとしても結局そんな環境の悪い場所に行く機会はない。
ふとこちらに気付いてくる人影に気付き、葉楽は立ち上がる。
「早かったですね。お手数おかけしまし・・・」
相手の顔を見て、ぴしりと固まる。
そこに居たのは、闇夜の中でも煌めく金糸で刺繍された牡丹を纏った年若き女だ。やや切れ長の瞳は獲物を狙う猛禽類のようであり、媚びを売る猫のようにも見える。はっきりと言えるのは、目の前の女が息を呑むほどの美しさであるということだ。
「どんな鼠が迷い込んだかと思えば、やけに小綺麗な鼠ですわね」
女は葉楽の目の前に来ると、持っていた団扇を喉元に突き付けた。
「ここに何のご用かしら?それよりもまずはあなたの身分をはっきりさせましょうか?年から見て
「わたくしは・・・ッ!」
押し付けられた団扇の先端がグッと喉を圧迫する。設置面が少ない分、痛みは強い。
「誰も発言を許可していなくてよ」
さらにぐっと強く押し付けられ、思わずその場で咳き込みそうになるがぐっと堪えた。
「あら、我慢強いこと」
顔は笑っているのに、目が全く笑っていない。
これまでの言動と場所から察するに彼女は皇族だろう。葉楽は王族ではあるが、あくまで属国である。瑞の皇族よりも身分は下だ。つまり彼女が発言を許してくれなければ答えるにも答えられないし、だからといってこうもはっきりと顔を見られてはこの場から逃げることもできない。
もっと注意深く鴻雲かどうか確認していればよかったのだが、疲れと気の緩みが招いた結果がこれだ。
どうするのが一番いいか頭を回転させていると、
「
聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。
「あ、兄様!」
女の声がわかりやすいように弾む。それと同時に喉元に突きつけられていた団扇が離れ呼吸が一気に楽になる。
助かった。
肩の力が一気に抜けた。
「っ大丈夫か?」
「えっ・・・ええ、申し訳ありません」
慣れない事態に無意識のうちに体に力が入っていたようだ。肩の力と共に膝の力も抜けて崩れ落ちそうになったところを鴻雲が支える。
「・・・兄様、そのおん、その方をご存知ですの?」
「お前は・・・ああ、そうか。あの日は居なかったのだったな。紹介しよう、我が妻燕妃だ」
「なっ・・・・」
驚愕する初音を前に葉楽は体制を立て直すと、膝を床につけ供手する。
「燕妃にございます。ご挨拶が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます」
「そ、そんなっ!顔をお上げください姉上様!」
慌てて初音が葉楽を立たせる。
「わたくしこそ申し訳ございません。勉強不足とはいえ、まさか姉上様だとは存じ上げずとても失礼な態度を取ってしまいましたわ」
眉を下げ、頬を赤らめる姿は、先ほどまでの険しい表情をした女と同一人物だとは到底思えない。そのあまりの変貌ぶりに、内心舌を巻く。そしてそれと同時に、この二人、よく見るとそっくりである。
「本来はきちんとご挨拶に伺うのはわたくしの方でしたので、殿下が気を揉まれることはございませんわ」
「あら、わたくし達姉妹ですのよ?わたくしのことは初音とお呼びくださいませ。ああ、そうだわ、母上も気になっていると仰っていらしたの!是非今度宮でお茶会を致しましょう」
こういう時は社交辞令でもすぐさま返事をすべきなのだが・・・彼女のこの間髪入れる間もなくぐいぐいくる感じは、返事をしたら最後、行くまで追いかけ回される未来が見える。そもそもただの一皇子妃が貴妃や公主のお茶会に参加していいものかさえわからない。
横目で鴻雲に助けを求める。
「茶会は好きにすれば良い。ただ、母上の予定をまずは確認してからでないと難しいのではないか?」
「ああ、それもそうですわね。では、また文をお出ししますわ。ところでこんな所で何をしていらっしゃったの?」
「書物庫を燕妃に見せようと思い立ってな」
「それならば日の高いうちか、また明日にでもいらっしゃればよかったのに」
「思い立ったのがつい先ほどだったのだ、仕方ないだろう」
鴻雲の言い草に、くすりと初音が頬を緩ませる。
「昔から大人しそうに見えて兄弟の中で一番やんちゃなのは変わらないのですね。どうせ門外からいらっしゃったのでしょう?兵たちには来客があった旨を伝えておきますわ」
「すまない、それは助かる」
「わたくしからもお礼申し上げます」
どうやって自身の宮に帰るつもりだったかは知らないが、これでまた抜け穴を使ったり人目を忍んで屋根に飛び乗ったりせずに済む。
「礼には及びません。実は最近禁苑の北側で怪しい人影を見たと兵が騒がしくしておりましたから、誤って兄夫婦に危害が及んだりしたらわたくしが我慢なりませんもの。まあ、兄様でしたら返り討ちにされることでしょうけど」
「・・・禁苑にですか?」
禁苑といえばあまりの広さに遭難者が出るとか出ないとか巷で噂されるほど広大な庭だ。しかし幾ら広いとはいえあくまでそこは皇宮に接しているわけで、そんな場所に不審人物などいれば騒がしくなるのは当たり前である。
ええ、と初音が落ち着き払った様子で小さく頷く。
「実際は禁苑から少し外れた山なのですが、元よりあの一帯は異民族が住んでいた場所なので治安はあまりよろしくありませんの」
「異民族は今もそこに?」
「いいえ。わたくし達が生まれる前に別の領地を用意してそちらに移ってますわ」
「それは兵達の気が立つのも無理はないですね」
皇族に万が一のことがあれば、担当者のみではなく責任者数名の首は確実に飛ぶ。皇族とはそれ程までに尊いものである。
「まあ、ここはいつも何かしら騒がしいので仕方ありませんわ。そろそろ夜が更けてきましたのでわたくしはお暇します」
そう言うと、いつの間にか控えていた侍女の手から羽織を受け取った初音が肩にかけてくれる。
「夜はまだ冷えますのでどうかご無理をなさらないでくださいませ。我が国にとっても大事な体ですから」
「・・・ありがとうございます」
言葉の違いか、それとも文化の違いのせいかはわからないが、何故国にとって大事な体なのかは理解できないが、心配してくれているということには間違いないので有難く受け取っておく。
羽織りは初音の私物なのか、ほんのりと彼女が纏う伽羅の香がする。物自体も上質の羊毛でできているため、手触りがよく何より暖かい。
初音の姿が見えなくなる。それとほぼ同時に鴻雲が小さく息を漏らした。
「どうかされました?」
葉楽が顔を覗き込むと、罰悪げな表情を浮かべていた。
「いや・・・お前にはその、苦労をかける」
「・・・もしかして先程の茶会の話ですか?」
「ああ。あれは楽しいものとは決して呼べぬだろう」
何かを思い出したのか、更に顔を苦くし、今度は大きなため息を漏らす。
「まあ、そんなでも・・・」
葉楽はふと口を閉ざす。
茶会自体は嫌いではない。むしろ情報が集まる場なので好ましい。先程渋ったのは、いなくなる予定なのにも関わらず皇帝の寵妃と歓談していいものかどうか判断ができなかったためだ。
しかし、どうやら鴻雲の様子から察するに、重荷を背負わせてしまったと勘違いしているようだ。
ふむ、これは
葉楽はごはんとわざとらしく咳払いをする。
「そうですね。正直言いますと、あまり好ましいものではありません」
「・・・やはり俺の方が断りの」
「ああ、それには及びません。わたくしが我慢すればいいだけの話ですし、なにより殿下に公主さまと貴妃さまを説得できるのでしょうか?」
ほんの少しでも鴻雲が初音に押されている雰囲気は伝わってきた。きっと説得するだけでも非常に骨が折れる筈だ。
葉楽がにっこりと営業笑顔で反応を伺っていると、鴻雲の口から本日何度目になるかわからないため息が漏れた。
「お前の望みはなんだ」
「あら、望みだなんてそんな大それたことでは御座いませんわ。ただ、先日提示された取引の内容を一部変更していただきたいだけです」
鴻雲の眉間に深く皺が刻み込まれるが、そんなことで引く葉楽ではない。
そもそも一方的に押し付けられた内容は、取引とは呼べぬ代物だった。取引とは両方に利がなければ成立しない。だから取引を成立させてあげようというのは、かなりの譲歩だ。
「・・・言ってみよ」
「はい、ありがとうございます」
ここ一番の笑みを浮かべた葉楽は取引を開始した。
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