11、秘密

 「・・・さま・・・・さま、葉楽ヨウラクさま」


 蛍順ケイジュンの呼びかけにはっと葉楽が顔をあげる。

 

 「その名は後宮ここではやめなさいと言ったでしょ」


 どこで誰が聞いているのかわからない。後宮に入って以来、実名で呼ぶのは固く禁じている。

 蛍順の右眉がぴくりと小さく動いたのを葉楽は見逃さない。

 

 「わかっております。ただ、エン妃さまが一向に戻ってこられないので致し方なく」

 「・・・今回は見逃します。それで、一体何の用?」

 「殿下が晩餐を共にしたいので一刻にじかん後に宮に来るようにとの言伝を預かっております」

 「・・・・そう、わかったわ。悪いんだけど少し休むわ。半刻いちじかん後に起こしてくれる?」

 「かしこまりました」


 蛍順が退出するために戸に手をかけたが、一向に出ていこうとはしない。まだ何か用があるのかとその背を見つめていると、蛍順が振り返る。

 葉楽と蛍順は歳が近いこともあり、兄弟のように育った。そのせいか言葉にせずとも表情一つで理解できることもよくある。ちなみに先ほど右眉が動いたのは苛立った時の仕草だ。


 「・・・大丈夫よ。少し疲れただけだから」

 

 そう言って顔を緩ませると、蛍順は固い表情は変えずに小さく頭を下げて部屋を出て行った。

 足音が遠ざかるのを確認して、バタンと長椅子に倒れ込む。

 あの表情は心配と焦燥と不満が入り混じった表情だった。二人の間に秘密はなしだとか約束したことはない。ただ大抵のことを葉楽は蛍順に話していたし、その反対もまた然りだった。でも、この話はたとえ兄弟のような存在であっても決して口にすることはできなかった。

 

  『今日の話を誰かに話してみろ。お前の命の保証はない』

 

 鴻雲コウウンの宮を出る際、しっかりと釘を刺された。しかし、それも無理はない。異能者がいるこのご時世、話というのはどこから漏れるかわからないものだ。

 次期皇帝と目されている鴻雲が異国の魔女に呪いをかけられ、それが水の異能者との口付けでのみ一時的に解除されるなどと知られれば狙われるのは水の異能を持つ葉楽だ。ズイは大国なだけに敵も多い。その瑞を陥れるためならば、小国の王女ひとり殺すなど厭わない者は少なくないだろう。


 「嘘・・・よね?」


 頭では理解しているつもりだが、ぽつりと願望が口から漏れてしまうほど鴻雲の話はにわかには信じられないものだった。


 まず事の発端は今から約六年前、鴻雲が十三の時の話だ。母であるホウ貴妃の実家で不幸があった。宝貴妃は宝鳥族ホウチョウぞくという南部の少数民族の出身で、そこでは親族が亡くなると四十九日毎日欠かさず先祖が祀られている廟に参拝しなければならないというしきたりがあった。そこで南部を視察するいい機会だと息子の鴻雲も同行して南へ下ったのは良かったのだが、事件は到着後程なくして起こる。

 参拝といっても半刻いちじかんもあれば終わってしまうため、暇を持て余していた鴻雲はこっそりと側近の一人を引き連れて南部の街を散策していた。王都でもその立場からそうそう街に出られるわけもなく、それでいて物珍しいものに釘付けになっていると急に後ろから名前を呼ばれた。振り向くとそこには女が立っていた。真夏だというのにも関わらず烏を思わせる漆黒の外套を羽織る女はくすんだ赤黄色の瞳をしていた。女は自分は魔女だと名乗った。そして側近が気付いた時には時すでに遅く、鴻雲は呪いをかけられてしまった。


 『依頼されたから仕事はするが、まだこどものお前には慈悲をやろう。水の異能を持つ者、その者と力を合わせれば呪いは解けよう。ただし、無理にこじ開けようとすれば呪いは一層強固なものとなる』


 意味深な言葉残した魔女はその場から忽然と消した。後にそれは命に直接関わるものではないが、不老─姿だけが呪いをかけられた当時のままになることがわかった。不老など各国の為政者たちが喉から手が出るほど欲しがる代物でむしろ幸運ではないかと思われがちだが、鴻雲は明言はされていないものの東宮と変わらぬ立場だ。皇帝が青年の姿でずっと若々しいならまだいいのだが、童の姿では威厳を示すことができない。

 皇帝は威厳を示すことも重要である。だから豪奢な衣に身を包み、髭を蓄え、沢山の従者を引き連れているのだ。つまり外見が童のままというのはあまり良くない。そんなことでも思われるかもしれないが、皇帝の椅子から遠ざかる要因にもなる。

 事実鴻雲は公式の場にここ数年は姿を見せていない。表立っては言わないものの、絶望的だと見て自分の娘を他の皇子の後宮に入れた者もいるようだ。依頼した者がどこの誰だかは知らないが、このまま本当に東宮になれなければ完全に相手の思う壺である。

 

 「なんか・・・釈然としないのよね」


 もし葉楽が魔女に依頼する立場であれば、そんなまどろっこしいことをせずに息の根を止めてくれと頼むだろう。しかし、相手はそうではなく不老を願った。まるで自身の失脚していく様を見ていろと言わんばかりに。

 他の皇子か息子を皇帝にしたいと目論む妃か。その側近たちの可能性も捨てられない。なんにせよ、鴻雲が多かれ少なかれ恨みを買っていることには違いないだろう。


 「・・・まあ、あの性格じゃ仕方ないか」


 人を小馬鹿にしたように口元を緩ませる鴻雲の顔がちらつく。つい先ほどの愚行を思い出した葉楽は、思いっきり裾で唇を擦った。折角忘れかけていたのに、まるで苦汁を口いっぱいに詰め込まれたような気分だ。

 計画がうまくいくとほくそ笑んでいる誰かには悪いが、ここは全力で阻止させてもらうしかない。

 現時点で自分が一番の被害者であると信じている葉楽は決意を胸に目を閉じた。



 とっぷりと暮れた空を眺めながら後宮で一番大きな宮へと続く道を歩いていると、後ろからそっと背中を押される。

 

 「燕妃さま、お急ぎください」


 珍しく女物の格好をした蛍順だ。

 先ほど鴻雲の宮で別室で待機していた際に宦官だと間違えられ、挙句の果てに下女から色目を使われたらしい。たしかに高い鼻梁に切れ長の目に薄い唇は黙っていれば美青年にしか見えない顔立ちだ。幼き頃からの鍛錬のせいで無駄な贅肉が削がれた丸みのない肉体も男に見える要因の一つだろう。


 「まだ遅れてないんだからいいじゃない」

 

 あっけらかんと言い放つと、思いっきり睨み付けられた。

 たしかにいくら起こされても起きなかった葉楽に非はあるが、それでも服を着替えたり髪型を変えたりしなければ全然余裕はあったのだ。それをまた「燕国の威厳に関わります!」と師蝉シセンが言い出し、下着から何から全部取り替えさせられた。その割には宮を出る際「間違いを犯しては」ともはや決まり文句になりつつある忠告をしてくるし、一体何がしたいのかわからない。

 周りも葉楽と同じ感想を持っているようだったが、最古参に立ち向かえる猛者がいないのが悔やまれる。彼女さえ押さえてくれれば、負担は一気に減るのだが。


 「あなたのお婆さま、なんとかならないの?」

 「無理ですね。生きてる親族の中で止められる人間はいません」

 

 そんなにきっぱりと言い切られてしまってはそれ以上追求しても意味はない。何せ王女である葉楽の言うことも聞かないのだ。愛孫娘の蛍順の言葉が響かなければ打つ手はない。

 葉楽の宮は妃の中では鴻雲の宮に二番目に近いのだが、そうは言ってもまず鴻雲の宮と妃の宮までに相当な距離がある。

 この後宮を作った責任者に一言言いたい。広ければいいってものでもないのだと。

 

 「よっ、燕妃さま!」


 蛍順が後ろから飛び出してきたため、急いで足を止めたが、それから動きがない。

 一体何事だと蛍順の顔を横から覗き込むと、珍しく真っ青な顔をしていた。すぐに視線を追うと、そこにはわらわらと蠢く無数の影があった。

 葉楽は固まってしまっている蛍順から提灯を奪って近寄る。

 動いているのは虫だった。しかも採れたてなのかまだ息があるものがほとんどである。葉楽がそのうちの一つに手を伸そうとしたが、


 「なりません!!」


 ものすごい勢いで蛍順が止めに入ってくる。あまりの早さに目を瞬かせていると、もの凄い剣幕で詰め寄ってきた。


 「毒があったらどうするのですか!」

 「毒って・・・大丈夫よ。転がっているのは全て毒のない虫だから」

 「しっ、しかし!毒が塗られているかもしれません!」


 たしかにそれは一理ある。

 葉楽が手を引くと、蛍順はやっと大きく息を吸った。人は緊張すると呼吸を忘れることがあるが、まさしくそれのようだ。


 「あなたって昔から虫苦手よね」

 「苦手ではありません、自己防衛です」

 「・・・ふーん。意外とかれらに助けられているんだけどね、人間わたしたち

 「役に立っていないとは言いませんが、わたしには関係のない話です」


 ちなみに蛍順本人は気付いていないが薬として頻繁に虫を服用している。


 「・・・まあ、そういうことにしておくわ。しかし、一体誰がこんなことを考えたのかしら」


 葉楽が宮に呼ばれていると知って通り道であるこの場所にばら撒いたのか、それとも蟲毒にでも使おうと集めたが過ってぶちまけてしまったか。

 圧倒的に前者である可能性が高いのだが、後者であるとも限らない。ただし、後者だった場合、蟲毒はこの国では極刑である。燕では極刑まではいかないまでもやはりかなり罪は重い。


 「まさかソン妃ではないわよね?」

 

 今日の午前に夫たる鴻雲本人から最終宣告にも近い注意を受けておいて、その日の午後にこれを実行しているのだとしたらもはやその頭の悪さには同情するしかない。

 いずれにせよここで悩んでいても真相はわからないし、なにより鴻雲の宮に行くためにはこの道を通るしかない。そのためには虫をどかしてもらわなければこの地面すれすれの裾に虫を巻きつけながら晩餐の席につくことになる。それはいくら虫が苦手ではないとはいえ決して気持ちの良いものではない。そうなれば道は一つ。


 「・・・宮へ帰りましょう」

 

 葉楽はくるりと踵を返すと元来た道を戻り始めるが、すぐに後ろから腕を掴まれる。


 「燕妃さま、それはさすがにまずいのでは」

 「・・・じゃあ、あなたがなんとかしてくれる?」

 

 指差した先に散らばる虫たちに蛍順がまた顔を青くする。

 実のところ葉楽の力を使えば道をきれいにすることくらい可能なのだが、本音を言うと鴻雲の宮に行くのは面倒・・・というよりもまた何かされそうで警戒していた。

 できればこれ以上お近づきになりたくない。

 そんなことを言えば他の妃から糾弾されること間違いなしだが、これが本心なのだ。

 

 「ほら、もう無理はしなくていいから帰りましょう。大丈夫よ、皇子には使いを出しておくから」


 すっかり黙り込んで小さくなってしまった蛍順の肩に手を添え、自身の宮へ向かおうと方向を変えたその時、ぶるりと体が震えた。一瞬、季節外れの北風かと思ったが風自体吹いた様子はない。

 パキリと砕ける音に二人が振り向くと、そこには如北妃ジョホクヒが侍女を引き連れて立っていた。


 「あっ、そこには」


 あの素敵な服が汚れてしまう。

 慌てて葉楽が床に視線を落とすがそこには先ほどまでの虫たちの姿はなく、代わりに氷が張り巡らされていた。唖然としている葉楽たちをよそに如北妃は氷の上をいつもと変わらぬ速さで歩き、パキリと音を立てて氷が砕け散っていく。

 

 「・・・あ、あのっ!」


 ちょうどすれ違ったところで我に帰った葉楽が声をあげる。如北妃が足を止めて振り返ると、ちょうどスカートが揺れて、刺繍されている狼がこちらに牙を向くような形になった。猛禽類を思わせる鋭い眼光に一瞬言葉が詰まる。やはり美人は迫力が一桁違うのだ。


 「助けてくださったのですか?」


 最初の謁見の時は敵視されていると思っていた。でも、孫妃たちに絡まれた時もそして今回もさりげなく葉楽の利になるように彼女は動いてくれているように見える。

 もしかしたら葉楽の思い違いかもしれないが、その可能性がほんの僅かでもあるのであれば、ここで何も言わずに立ち去ることなどしてはならない。

 一瞬目を見開いた如北妃はすぐに目を伏せる。彼女の足元には沓についた氷が解けたのか、水滴が散らばっている。 


 「あなたはどう思ったの?」

 「えっ?」

 

 静まり返った水面のような声に、思わず声をあげてしまった。すぐにしまったと思ったが、こちらに顔を向けた如北妃の表情は不機嫌そうに歪められているわけでもなければ、憂いを帯びているわけでもなかった。ただ、その榛色はしばみいろの瞳はどこか期待を含んでいるように見える。


 「わたしは・・・とても助かりました。ありがとうございます」

 「そう・・・それはよかったわ」


 如北妃がふっと口元を緩めた。

 その初めて見る表情の美しさに葉楽と蛍順が絶句してしまっていると、如北妃がすいっと顔を寄せてきた。


 「燕妃、もしよかったら・・・わたくしと」

 「燕妃さま」


 後ろから呼ばれて振り向くと、そこには提灯を片手に持った英清エイセイが立っていた。


 「えい」

 「英清。一体何用なの?」


 葉楽が名前を呼ぶよりも先に如北妃が尖った声をあげる。

 鴻雲の従者の名前など自分しか知らないと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。


 英清は体を如北妃に向けたまま、葉楽に顔を向けた。


 「晩餐が冷めると、鴻雲さまが首を長くしてお待ちです」

 「そ・・・・わかりました」


 悲鳴をぐっと堪え、平常心を装う。

 できれば如北妃の前では言わないでほしかった。如北妃だって他の妃と同じく寵愛を受けるためにこの後宮に来ているはずだ。それが一人だけ抜け駆けのような形になれば面白くもないだろう。

 そろりと横目で様子を伺うと、予想通り白けた空気を醸し出している。如北妃は他の妃とどこか違った雰囲気だったので、いい関係を築ければと思っていたのだが、どうやらその作戦は完全に流れてしまったようだ。この場合、空気を読まずに口に出した英清を恨めばいいのか、それとも抑々の根源である鴻雲を恨めばいいのかわからない。

 葉楽がその場を離れるよりも先に、如北妃がふいっと顔を逸らして自身の宮とは反対方向に向かって歩いていく。このままではまずい。すぐに葉楽が叫ぶ。


 「如北妃さま!また後日改めてお礼にお伺いしてもよろしいでしょうか!」


 ぴたりと歩みを止めた如北妃が小さく頭を縦に振った後、肩越しに振り返った。団扇で顔を隠してしまっているので表情すべてはわからないが、視線は想像していたよりもずっと鋭くない。

 よかった、なんとかこれで完全に敵に回さずに済むかもしれないと胸を撫でおろしたのも束の間、


 「きゃっ」


 ふわっと体が宙に浮く。

 

 「その沓では宮まで時間がかかりますので、お連れ致します」


 葉楽の返事を聞く間もなく英清は宮に向かう。

 宙を浮くという初めての体験に、初めて船に乗った時の感覚を思い出す。そして葉楽は船があまり得意ではなかった。むしろ苦手な方だった。

 その結果、歩くよりも格段に速く宮には到着したわけだが、席に着いた葉楽はとてもではないが晩餐を楽しめるような状態ではなかった。

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