8、交渉決裂

 自分はこれでも冷静な方だと思っていた。他国の国王相手の席に同席することも多かっせいか同世代と比べれば度胸はある。しかし、それとこれとは話は別だった。


 「・・・やはり、そうか」


 意味深な発言の意味はわからないし、何より突然少年だったはずの鴻雲コウウンが年相応の青年の姿になっている。

 いや、ここで突然という表現は相応しくない。少年から青年になる過程で忘れてはならないことがあったではないか。


 「なんだ、どうし」


 胴体目掛けて何かが飛んできた。鴻雲は涼しい顔でそれを片手で受け止める。


 「どうした・・・じゃない!」

 

 掴まれた足にぐぐっと力を入れるも、体格の差以前に押し倒された状態で敵うわけはない。簡単にねじ伏せられる。それならばと空いた右手で顔を狙おうとしたその時、


 「鴻雲さま」


 部屋の外で声がした。先日助けてくれた英清エイセイである。


 「大丈夫だ」


 しかし、鴻雲のその一言で気配は消えてなくなった。それとほぼ同時に、戸に向けられていた視線がふるふると怒りで震える葉楽を捉える。その瞳は相変わらず底の見えない深い闇のような漆黒だった。思わず飲み込まれそうになりながらも睨みつけていると、形の良い唇がふっと緩む。


 「エン国には初夜に夫に蹴りを入れる風習があるのか?」

 「・・・故郷を愚弄するのは止めてくださいまし」

 

 一体燕をどんな野蛮な国だと思っているのだ。

 カチンと頭にきたが、おかげで少し冷静になれた。鴻雲もそう判断したのか、掴んでいた手足を開放する。するりと猫のように下から逃げ出した葉楽ヨウラクは、そのまま寝台から降り、部屋の一番隅に逃げた。


 「夫に対してずいぶんな反応をするのだな。命も助けてやったというのに」

 「・・・あの件に関しては感謝しております。ただ、それとこれとは話が別です!」

 「まあ、別でもよい。ただ、お前は誰が何を言おうとすでに俺の妻だ。接吻くらいでそんなに毛を逆立てるな」

 

 接吻という単語に葉楽は思い出したかのように袖で口を拭う。

 先日見た時と変わらぬ少年の姿をしていた鴻雲は部屋に入ってくるなり寝台に腰掛けていた葉楽を押し倒すと、あろうことか接吻をした。そして次の瞬間、そこには見たことのない青年が姿を現したのだ。しかし、それが鴻雲であることは間違いなかった。左目の下にある黒子の位置、顔の部位パーツの形、そして何より耳の形が完全に一致していた。

 どんな術を使ったのかはわからない。ただ、同一人物ということはほぼ間違いないだろう。

 

 「そんなに擦るな。唇を痛めるぞ」


 腕を掴まれ、葉楽はぎょっと目を見張る。

 結構な距離感があったが、ほんの一瞬目を離したた隙に目の前に来ていた。普通に考えて、有り得ない。

 一度に色んなことが起きすぎて爆発寸前の頭を整理していると、鴻雲の親指が葉楽の唇の上を滑る。


 「少し荒れたではないか」

 「っ・・・あなた様には関係がないことです」


 悲鳴をなんとか押し殺し手を弾くと、その人形のように均等の取れた顔がほんの少しばかり不満げに歪んだ。

 

 「関係ならある。お前はわたしの妻だ」

 「・・・たしかにわたしは妃の一人でございます。ただ、生憎ではございますが、わたしはこの国に骨を埋める覚悟はございません」


 はっきりと言い切ると、今度は先程よりもはっきりと顔を歪めた。


 「それでは何故お前は退しなかったのだ」

 「それは・・・」


 皇帝との謁見後、ズイより手配された侍女から詳しい話を聞いた。

 なんでも第四皇子は国内では皇太子─東宮に指名されるのではとまことしやかに囁かれているらしい。ただ、ある時から公式の場に姿を見せることがほとんどなくなっていた為、他の皇子が有力なのではという説もあるようだが、それでも第四皇子に軍牌が上がるのではと言われている。

 その最たる理由が生母であるホウ氏だ。宝氏といえば、その美しさは当たり前だが男に生まれていれば学者になっていたくらい博識な女性だと葉楽も噂に聞いたことがあるほどで、未だに皇帝の寵愛を独占しているという。

 つまりそのような背景もあって、今回の第四皇子の後宮に入る者はいわば未来の皇后になる可能性もある。皇帝の妻になるというだけでも影響力は十分だが、やはりその中でも正妃である皇后は格が違う。どうせ目指すならば家のため、自身のため、皇后を狙うのが当たり前だ。

 あの時鴻雲が言ったとは、将来皇帝になると思っていた人物がこんなこどもの姿で現れたため、実際は皇位から遠いのではとの考えが頭をよぎった者たちの気持ちを代弁したに過ぎない。

 そして、もう一つ。葉楽が引っ掛かりを覚えた退

 これも初めて知ったのだが、瑞では皇子の後宮に一度入ってしまえば、他の皇子の後宮に入ることは二度と叶わないと法で決まっているらしい。

 その昔、兄弟間で妃の取り合いで紛争になりかけ国政が乱れた。二度とそんな愚かなことがないようにと当時の皇帝自らが率先して制定した由緒正しき法律である。

 皇位につくかわからない男の元に嫁いで後悔する前に辞退した方が家のためになるかもしれないぞ、と暗に示唆したわけだ。

 辞退という画期的な方法があるのであれば、今すぐにでも国に帰ろう。意気揚々と荷物を纏めようとした葉楽だったが、まとめ始めたところでふと気づいてしまった。ここでもし辞退したとして、次に声がかからない可能性は零ではない。今回だって押しに押されて押されまくって仕方がなく葉楽が出てきたのだ。また同じことを繰り返すなど御免である。それならば辞退せずに、最長で三年我慢した方が危険リスク回避の観点からいけば合理的だと考えた。なにせ何もなければいいだけの話。だから簡単だと踏んでいたのだ─なんて本人を目の前にして本当のことを言えるわけもない。

 何かいい言い訳がないか。頭を巡らせていると、鴻雲の手が伸びてきて頬に触れた。


 「逃げ道は作ってやった。それなのに逃げなかったのはお前だ」

 「・・・他の方には指一本触れていらっしゃらないと伺っております」

 「ほう。だから自分も大丈夫だと踏んでいたわけか・・・浅はかだな」


 正論にぐうの音も出ない。

 しかし、美しい娘はたくさんいた。それこそ己が国の家の威信をかけて送り込んでくる娘だ。美しくないわけがない。そんな美しい娘たちに第四皇子は触れるどころか関心すら持たなかったと侍女たちが噂していたのだ。あまりに仕打ちに皇子が帰った後に泣き崩れる者、落胆して肩を落とす者、周りに当たり散らす者と反応は異なれど皆傷つき、酷い者はそれから宮の外にすら出ていないらしい。だからきっと自分も指一本触れられないと思っていたのに、蓋を開けてみれば押し倒されるし接吻されるし散々たる結果である。悔しいが認めざるを得ない。


 「たしかに、甘い考えだったと思います。ただ、ではどうしてわたしにのみ違う行動を取るのか理解できかねます」

 「違う行動な・・・それはどこから聞いた話だ」

 「侍女たちの噂話を耳にしました」

 「なるほど。では、その侍女たちが嘘をついてたとしたら?」

 「嘘?」


 考えもしなかったが、確かにその可能性は否定できない。ただ、なんの得があってそんな嘘をつくのだろうか。


 「自分だけではなく他も前進していないと安心させ、その間に何かしら策を練って出し抜こう・・・そのように考える者は当たり前のようにいる。そのために態と侍女たちを使って噂を広める。後宮とはそのような場所だ」


 自分が勝つためならば嘘をつくのは当たり前の駆け引きの世界。

 それはまるで後宮という世界を知らぬ葉楽への警告のようにも思えた。


 「それでは・・・実際は深い仲になった方がいると?」

 

 もしそうであれば、第四皇子は女に興味がないという葉楽の予想は大きく外れたことになる。

 お願いだから女に興味はないと言ってくれ。

 祈るような思いでじっと鴻雲の目を見つめていると、ふっとまた口元が緩んだ。しかし、今度はさっきよりも柔らかな雰囲気に感じられる。


 「心配するな。実際に手を出した者はいない。まず、俺は白粉のにおいがあまり好きではない」

 

 葉楽は自分の頬に触れるが、何もつかない。

 しまった、と内心項垂れる。

 師蝉シセンはここぞとばかりに白粉を進めてきたのだが、葉楽自身白粉のにおいが好きではないため断ったのだ。


 「俺は下手に媚びる女も好きではない。そしてなにより、予想通りお前以外にはいなかった」

  

 何故自分の力を知っているのだ。

 葉楽は驚くが、すぐに九鳳門くほうもんの一件での自身の行動を思い出す。

 あの時力を使っていなければと後悔したが、あの時はいくら剣の腕が立つ蛍順ケイジュンが傍に居たとはいえ、力無しには矢を避けることはできなかった。それこそ蛍順が刀を抜いていれば国家反逆などの罪を着せられ、切り捨てられてもおかしくなかった。特に葉楽たちは燕の人間だ。瑞国内に敵は多いと思っておくに越したことはない。

 きっと英清に葉楽たちを見張らせたのも、本当に水の異能者か確かめるためだったのだろう。しかし、何故鴻雲が水の異能者を求めるのか葉楽には皆目見当もつかない。

 

 「あの・・・何故水の力が必要なのでしょうか」


 もしや葉楽の提案するはずだった計画にすでに鴻雲が目をつけていたのかもしれない。そうであれば話は早い。今この瞬間、交渉に入れるからだ。本当は自分の目で、最低でも信用できる者が実際に見てからの方がいいがこの緊急事態にそんなわがまま言ってられない。

 しかし、そんな葉楽の期待を鴻雲は見事に裏切った。


 「俺の身にかかった呪いを解く鍵だからだ」

 「呪い・・・・ですか?」


 おっと、よくわからない話になってきたぞ。


 「ああ。俺がこの姿に戻るためには燕妃、お前の口づけが必要になる」

 「は・・・嘘ですよね?」


 一気に冷や汗が吹き出し、背中を伝う。

 それは鴻雲に対する呪いではなく、もはや自分に対する呪いではないか。

 

 「鴻雲さま」

 「・・・なんだ」

 「結果を報告しろとのことで、陛下がお待ちです」

 「・・・・・はぁ、わかった。すぐに行く」


 壁と鴻雲に挟まれていた葉楽がほっと息をついたのもつかの間、


 「ああ、忘れていた」


 踵を返した鴻雲は葉楽の顎を指で持ち上げるとそのまま唇を奪った。


 「それでは、また明日訪れる。準備しておけ」


 すたすたと部屋を出ていく鴻雲。

 そして入れ違いに入ってきたのは小難しい顔をした蛍順。


 「・・・・交渉決裂ですか」

 

 すべて聞いていたのだろうに。交渉決裂なんて可愛いもんじゃない。交渉の余地すらなかった。

 葉楽は何も答えずにその場で小さく蹲った。いろんなことが想定外すぎて今は何も考えたくなかった。このまま一晩経ったら夢でしたなんて嬉しい展開になってくれないだろうか。

 しかし、そんな葉楽の願いは空しく、翌日にはあの第四皇子がついに妃と枕を交わしたという話題で後宮は持ち切りになったのであった。

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