1、旅路
カラカラと規則的な音がする。
対面に座る乳母は長旅の疲れが出たのか、体を壁に預けて眠ってしまっている。しかしそれを咎める気にはならなかった。むしろ生きているかと心配になって何度も口元辺りに手を伸ばす始末だ。掌に息がかかる度、ほっと胸を撫で下ろす。おかげでこっちは体は疲れ切っているはずなのに、全く眠られずにいる。
だから老体には厳しいから国に残れと言ったのに。
思わず渋い顔になってしまう。当の本人は完全に意識を手放しているため効果はないとはわかっていても自然とそうなってしまうのだから仕方がない。
それにしても、その体が重い。
肩と首を回すと、パキリと嫌な音がする。
夜には必ず宿に泊まるため休息は取れているはずなのだが、それでもずっと座りっぱなしのせいか疲れは完全には抜けてくれない。
一層のこと、代わってくれないだろうか。
窓から外を見遣ると従者の一人と目が合った。思っていることが伝わったのか、小さく頭を左右に振られる。幼き頃からのよしみでという考えは従者の頭の中には完全にないらしい。相変わらず頭の固い男である。それならばこちらもどうにかして・・・と考え込みそうになったところで、「王女さま」と嗜めるような声が耳に飛び込んできた。
「あら、起きたの?」
視線を正面に向けると、つい先ほどまで眠りこけていた乳母が半眼で睨めつけていた。そのじっとりとした蛇のような視線は苦手だが、今は顔についた跡によって威力が半減している。むしろちょっとだけ笑いそうになるのも堪える方に神経を使う。
それがわかったのか、乳母はこほんとわざとらしく咳払いをした。
「良いですか、王女さま。あと少しで目的地というこの場で馬に乗ろうなど言語道断です。それに元来淑女というものは馬に跨ったり致しません」
「でも、国では乗っていたわ」
「あれは貴方さまが泣きついたので陛下がお許しになられていただけです。何よりその格好でどうやってお乗りになるおつもりですか」
その格好と言われ、自分の着ている服を見る。
海を掬い取ったような淡い青の
誰がどこからどう見ても高価だとわかる仕立ての良さに、思わずため息を漏らす。
こんな物を作らせるくらいなら、馬を一頭貰った方がありがたいのだが。
「馬と服を比べるものではございません」
「あれ、口に出てた?」
ぴしゃりと言い放つ乳母に小首を傾げると、じろりとまた睨めつけられる。
おお、怖い。
「王女さま」
乳母は一段と眉間の皺を深くした。
今度は口には出さないように配慮したが、どうやら心の声すら彼女には聞こえてしまうらしい。そしてこのお説教体制になったら最後、見た目はか弱い老婆にも関わらず誰一人として敵わないのだから質が悪い。
「・・・あとどれくらいで王都には着くのかしら」
話を逸らしたと思ったのか、乳母がむっと眉を寄せる。それでも彼女は決して無視しないと長年の付き合いから知っている。
「あと
「そう・・・じゃあ、少し寝るわ」
言うが早いか羽衣も丸めると枕にすると、座席に完全に横になって目を閉じた。
即席枕が貧相なせいか、座席が固いせいか、いまいち寝心地のいい場所が見つからずゴロゴロと寝返りを打っていると、ぺしぺしと歩揺が頬にぶつかってくる。地味に邪魔なので抜き取ると、「ああ御髪が!」と悲鳴にも似た叱責の声があがるが・・・・気付かなかったふりをする。どうせ到着前にまた直すのだから大目に見てほしいし、なによりあまりきれいに着飾っては困るのだ。
三年。短いようで長いその期間、目に留まることなくひっそりと生きることがなにより重要だった。
乳母が何か小言を言っているようだが、眠りに落ちることに置いては随一の王女にはもう届かない。
闇が迫ってくる。意識を完全に手放そうとした瞬間、
「──」
ほんの一瞬だけ自分の名を呼ぶ、耳触りのよい声が聞こえた気がした。
でも、そんなことはあり得ないと知っている。だって、その人物はここにはいないのだから。
「馬鹿だなぁ」
ぽつりと漏れたつぶやきは馬車の音にかき消された。
乳母にせっつかれ起こされた時にはすでに王都の玄関口に到着していた。
さすがは『眠り王女』。あの寝心地の悪さでも全く起きなかったのには自分事ながら感心してしまう。
「本当に全く起きないので何度も息をしているか確認したんですよ」
呆れたように乳母が言うが、全く同じことをやっていた身としてはなんとも言えない気分になる。仕草や癖は親に似るというが─どううやら親よりも共にいる乳母に似てしまったらしい。
まだ頭が完全に覚醒しきっておらず、ぼーっと宙を眺めていると乳母が隣に座り丁寧に髪を梳かし始めた。
「・・・そういうのは屋敷についてからでいいんじゃない?」
一応曲がりなりにも自分は一国の王女である。
王都には国王所有の屋敷がある。娘である王女はそこに滞在できる手筈になっているはずだ。
「ええ、そのつもりでしたが・・・」
乳母は歯切れ悪く言葉を切ると、外に目を向ける。
何だと同じように外を覗く。すると、そこには端が見えないほど長くそして高い壁が聳え立っていた。その姿に感心すると共に、やはりここは故郷とは全く別物なのだと再認識させられる。しかし、それで乳母が言い淀む理由がわからない。
頭の中でぼんやりとしていた疑問符が明確な形になりかけた時、トントンと馬車の戸が叩かれた。
「はい」
開けようと戸に手をかけ、引こうとした直前で乳母に腕を掴まれる。老婆とは思えぬ力に見遣ると、にっこりとほほ笑んだ乳母の額には青筋が浮かんでいた。
これはまずい。
とっさの判断で手を離すと、乳母は一呼吸おいて「名と所属を」と投げかける。外から帰ってきた返答に乳母が戸を開いた。
「それで、先の様子はどうなっていますか?」
「はっ。どうやら検問に引っかかった
つまり今は検問待ちの状態なのか。
少しだけ馬車から身を乗り出すと、想像していたよりも遥かに長い列ができていた。
「困りましたね。これでは黄昏までに王都に入れるかどうか・・・」
王都の門は夜間は閉じるため、決まった時刻までに通過できなければ外で一夜を過ごすこととなる。どこでも寝れるからとはいえ、さすがに野宿はご遠慮願いたい。
「別門はないのですか?」
大人しく事の行く末を見守っていようと思ったが二人して黙ってしまったので口を挟むと、従者がすぐに額を地面に押し付けた。その姿にげっと顔を引きつらせそうになりながらも、「発言を許す」と言うと従者が顔をあげる。あげると言っても顔が斜め下を向いているので視線は合っていない。人と話をする際は目を見てほしいものだが、それは無礼に値するので無理なのだと以前言われた。特にこの者は頑固な質なので、今後も一生視線が合うことはないのだろう。
「はっ!ありがたき幸せ!」
「・・・それで、別門はないのですか?」
これだけ広い羅城を持ち合わせているのであれば、門など他にいくらでもあるだろう。ここ一つで賄っているのであれば、それは阿保のすることだ。
「はい。他にも正面に二、東西に其々三ずつあるにはあるのですが・・・・」
珍しく歯切れの悪い従者に驚きつつ、「言いなさい」と命じると躊躇いがちに口を開いた。
「その、どうやら初めて王都を訪れる蛮族はこの門しか通れると言われまして」
「・・・こちらは王女さまですよ?」
乳母の声が震えている。
表情は変わらぬものの、ひどく怒っているのがひしひしと伝わってくる。
しかし、蛮族と言われるのも無理はない。故郷がこの国─瑞に属したのはほんの十年ほど前の話だ。しかもその時の戦で瑞はこれまでの戦とは比べ物にならないほどの死者を出したという。そのせいか憎まれることも多いと耳にはしていた。だから王女にとっては予想もできていたことだし、たいして驚くことでもない。ただ、このまま待ちぼうけを食らうのは性に合わない。
「ねえ、
「いいえ。もう一つの馬車の方においてございますが・・・」
乳母の師蝉が答えながら訝し気に眉を寄せる。
しかし、王女は「そう」とだけ答えるとするりと馬車を降り、後続の馬車に前に立った。乗ってきた馬車と同じく王家の家紋でもある燕が描かれた馬車の戸を開け、中に入ると鍵を閉めた。
「王女さま!ここをお開けください!」
外から慌てた師蝉の声が聞こえるが、素直に開ける性格ではないことを一番よく知っているのは師蝉のはずだ。もちろんその期待は裏切らない。
王女は聞こえぬふりをすると、そのまま荷物を物色し始めた。
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