偽りの王女はさっさと国に帰りたい

うみの水雲

0、プロローグ

 どこまでも広がる青い空、その空を映し出したような小さな湖畔のほとりに咲く小さくも可憐な紫雲英ゲンゲの花々。

 唯一心休まる場所だったはずなのに、今、その場でわたしは息を呑んでいた。いや、正しくは呑まざるを得なかった。

 目と鼻の先にあるのは身震いするほどに深い二つの黒曜石。その二つは数少ないとはいえこれまで見たことのないほど色めき立っていた。目を離せない。離したらそれこそ終わりだと本能が告げている。

 鼻先同士が触れた瞬間、はっと我に返り体を後ろに引こうとしたが、すぐに伸びてきた手に頭を固定される。男と女、ただでさえ体格差なのにこんな態勢ではうまく逃げ出すことは不可能だ。

 こんな時、彼が居てくれればと思ってしまうが、肝心の彼はもう側にはいない。もし居たとしても、助けてくれないだろう。

 だって彼はもうではないのだから。


 三年。


 ここに来ることが決まった時からただその時が経つことだけを望んでいた。でも今は─ここから逃げ出したところで自分の居場所があるのかさえわからなくなってしまった。

 

 「・・・お前は俺のものだ」


 顔がまだ一段と近くなった。ここで渾身の力を込めれば振り払えるだろう。でもそうしなかったのは外交問題になるとか、なにかしらの処罰を受けることが恐ろしいなんて可愛い理由ではなかった。

 ただ、もうこれ以上傷つきたくなかったのだ。自分以外の誰かの隣で笑う彼を知るくらいなら、このままこの感情なんて消えてなくなった方がいいに決まっている。無理矢理にでも奪われてしまえば、きっと諦めがつく。

 だから、わたしがこの道を選択したのは仕方がないことだった。そして、もう一度あの瞬間に戻ったとしてもわたしはきっと同じ選択をするのだろう。


 

 

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