/// 補遺 /// 生きながら火に灼かれて

 初めて青年に会った時、その瞳に宿る炎に焼かれて死ぬ運命なのだと男は悟った。




 その夜、男は一人の女を殺した。

 当時も今も男は定職についておらず、犯罪組織の使いっ走りのような仕事をして糊口をしのいでいた。運び屋、取り立て、かばん持ち、ゆすり、たかり、果ては追剥や殺人まで、言いつけられれば何でもやった。特に当時は使い勝手のいい下っ端がいなかったため、労力の割に得るものが少ない、面倒な、仕事と呼べないくらいの雑務がひっきりなしに回されてきた。

 たしかその夜は、傘下の風俗店の売上を持ち逃げされ、その下手人を追っていた。借金返済の目途が立たず、苦界に身を落とした商売女だった。掃いて捨てるほどありふれた身の上話を語っては涙を誘うようなおしゃべりで、口も頭も、引いては尻も軽い愚かな女は、とうとう引き返せない一線を越えてしまったのだ。かわいそうだとは思うが、同情はしない。それこそ、男にとっては掃いて捨てるほどに見聞きし慣れた些末事だった。

 件の店から電車で 20 分、駅を降りて、入り組んだ裏路地を山手方面に十分余り歩いた坂の途中に、女のアパートはあった。電車で揺られているうちに空はすっかり暗くなり、おまけに大粒の水滴が斜めに窓を走り出したものだから、駅裏のコンビニでビニール傘を拝借した。

 年季の入った屋外灯は寿命を迎えてチラついており、くもの巣や枯葉が絡まっていることも相まって薄暗く、忍び寄る夜闇の侵食を許していた。放置された植木鉢やタイヤが散見され、経年と生活の色が染みついていて、軒下ではねる水滴が一定のリズムで陰鬱な時を刻んでいた。

 男は、アパートを出てすぐの電柱の影、電灯の照らす領域から逃げるように身を隠して女を待った。

 幸いにして、ほどなく女は姿を現した。両手にスーパーのビニール袋を下げ、左肩と首の間で傘を支えながら坂を上ってくる。

 男は息を殺して、鞄からナイフを取り出した。女が通り過ぎるのを待つ。

 時間にして、およそ 10 秒。

 女が頭を上げた。アパートを視認したようだった。ズレ落ちた傘を立て直し、また歩き出す。

 頃合いを見計らって、男は女の背後にぴたりと付く。すぐさま後ろから口を押えて心臓の裏側を一突きした。

 女は痙攣した。それが止まると途端に膝を折り、濡れた地面にゆっくりと倒れた。その手から解放された荷物が散らばる。値引きシールの貼られた惣菜パックが雨粒に叩かれて音を立てた。

 脈と息を確認するため、男はぐっしょり濡れた女を抱き起した。

 顔を見た瞬間、意識するよりも前に舌打ちが出ていた。

 「あー、くそっ」

 今男の腕の中でこと切れているのは、例の下手人とは無関係の、駅近くのスナックで働いている女だった。




 勢いを増した雨がしとどにアスファルトを濡らし、水たまりに映り込んだ街灯が絶えず揺れていた。

 女個人には何の恨みもなかった。手違いで殺してしまったこともあり、この後の処理を考えるとただ気が重かった。気が進まなくとも、やらなければならない。それが男の仕事だったからだ。

 暴行の痕跡を偽装し、哀れな女が襲われた現場をものの半時で作り上げた。暗い夜、雨の中の作業は面倒なことこの上なかったが、人気が無いのが幸いした。

 ふと、視界の端に動く影を見とめた。仕事道具を手早くまとめて、先刻の電柱に身を隠す。

 アパートの二階から小柄な少年が降りてくる。骨の曲がった、彼の身長にしては大きすぎる傘を抱えて、タンタンと軽やかに階段を踏み鳴らして。

 足早に駆け下りてきた少年は、公道に出てすぐ、固まった。傘を取り落とし、仕立て上げたばかりの女の死体を前に呆然と立ち尽くしている。冷酷な雨が絶え間なく降り注ぎ、少年をすっかり濡れ鼠に変えてしまっても、少年は微動だにせずそこにいた。

 体温を奪われた白い顔は涙とも雨ともつかず濡れそぼり、その中で目だけは煌々と憎しみに燃えていた。見開かれた目の形が、女によく似ていた。

 幼い少年の激情は、遠目に見ていた男にすら伝わって来るほどに猛々しく、小さな体のどこにそれだけの感情を収めておけるのかと、こんな状況でなければ訝しんでいただろう。

 いつかその憎悪に刺し貫かれ、炎に焼き尽くされる様を想像して男は総毛立った。口端はゆがみ、声のない笑いが漏れる。

 一目惚れ──言葉が想起させる事象からは程遠いけれどもそうとしか言いようのない──だった。

 どうしようもなく昏い歓喜を胸に、男はその場を後にした。




 「すみません、その、僕、なにも覚えていなくて」

 ベッドから体を起こして、青年は、幾度となく繰り返しただろう言葉を申し訳なさそうに口にした。

 夜の面会時間ギリギリの、蛍光灯の光量と真白のシーツだけの、何も取り繕うもののない病室では、すべての虚飾が痛々しく剥がされるような居心地の悪さがある。

 「……あなたは、僕とどんな関係だったんですか?」

 空っぽの瞳を向けられて、男は自分でも思っていた以上に動揺してしまった。その事実に気づいてまた狼狽えた。

 男の反応を見て、もう青年と呼べるほどに大きくなってしまった彼の“運命”は、所在なさげに視線をさまよわせた後、目を伏せた。無防備な横顔だ。恥じ入るような表情はいじらしく、生来愛されて育った者のそれだった。

 男はこの段に至ってようやく、自分が奪ったもの、失ってしまったものの重大さを思い知った。

 半開きの口で硬直した男の姿は、見る者が見ればひどく滑稽であっただろう。掛ける言葉さえ持ち合わせていなかったくせに、のこのこと病床まで押し掛ける無神経さですら息をひそめてしまったのだから。

 やっとの思いで絞り出した「そうか」の声は、いつも自分の耳で聞くものより細く掠れ、無様にも震えていた。

 青年は悲しげに微笑んだ。

 「大事な人だったんでしょうね、きっと」

 善性から導き出された考えというよりは、見せられ伝えられたものすべてを信じるより他に選択肢がない諦めがそう言わせたようだった。

 男には答えられなかった。自分の口から語られるどんな真実も、青年に聞かせてはならないと強く思った。そして。

 不意に、まばゆい光が病室に満ち、二人を女神の元に連れ去った。同じ“願い”を胸に抱いた星の騎士が、新たに誕生した瞬間だった。




 今夜も、青年の瞳の中にあの炎を探す。

 何を勘違いしたのか、息を乱しながらも青年は、首の後ろに回した手に力を籠めて引き寄せ、唇を重ねてきた。拙いその動作の端々には、間違いを恐れる幼子のような迷いと怯えを滲ませている。青年の後頭部を支えて、したいようにさせてやった。

 倒れこんだ先にたまたまいたからだとか、手を伸ばして拒まれなかったからだとか、きっかけを述べるとしたらそんな他愛のない理由だ。

 閉塞した未来から目を背けるべく、どちらともなく互いを求め、こうして熱を分け合って過ごす。




 青年は聡い。慰め合う夜に何の意味もないことなど、とっくに気づいているはずだ。

 だから男は、青年の目の奥に淡い炎を見た時、殴られたような衝撃を覚えた。

 記憶を失ったからと言って、人の本質はそう簡単には変わらない。青年の目は子どものころと同じように、易々とその感情を映す。

 蕩けてうるんだ瞳に、質の違う熱が混じっている。

 探し求めた憎悪でも、今まさに享受している悦楽でもない、これは。

 いわゆる恋慕の情、執心の色だ。内側から臓腑をじりじりと炙るような、しびれるほどに甘く、どうにも手放しがたい熱だった。




 二人の“願い”が叶った暁には、青年の記憶は戻り、男に向けられる感情は憎悪一色に染まるだろう。

 正義感が強く、潔癖なきらいがある青年のことだ。親の仇に慕情を抱いた自分を許さず、一切の迷いなく切り捨てるだろうと容易に予想がついた。

 男の方はと言えば、決断を先送りにし続けていた。

 こうして手をこまねいている間にも、青年が抱く感情の変容は止められない。むしろ大きく育ってゆくばかりだ。

 いつ、「このままの関係でいたい」という思いが勝るだろうか。だがその日が来てしまったら、星の騎士の資格を、青年と並び立つ資格を失う。

 まだ星の騎士であり続けられているということは、あの炎に焼かれる己を諦めきれていない証左でもあった。




 どうせ救いがないのなら、と開き直ってみる。すでに死に始めている身なのだから、と。先に待つのが避けようのない破滅ならば、せめて今だけは。

 青年と共に生きる夢を見たってバチは当たらないだろう。

 死因となる青年は、彼に裁かれるべき男の胸中など知る由もない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それを真の名で呼ぶならば 宮前薫 @KAORU_MIYAMAE

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ