/// 本編 /// 残像はいつか消えゆく
1
物語が始まったので、彼らは走り出した。そうせざるを得なかった、と言った方が正しいかもしれない。ともかく彼らは、夕闇の停滞する路地裏を、息を切らしながら走っていた。
「しつっこいな……! あなたの知り合いでしょ、何とかしてくださいよ!」
角を曲がりながら半ば吐き捨てるように青年が口にした言葉は、コンクリートの壁に跳ね返されてむなしく響いた。
隣を走る男は悪びれた風もなく応じる。
「覚えがねえな。お前さんのだろう?」
「僕がそんな恨みを買うわけないじゃないですか!」
背後に迫る死者の群れは、人語とも獣のそれともつかない唸り声を上げている。みな一様に人相が悪く、手には斬馬刀やらマシンガンやら、物々しい武器を携えていた。それらを扱うだけの知性は備わっているらしい。
「ずいぶん愛されてますね!」
「はは、まったくだ」
笑い事じゃない、と食って掛かろうとした矢先──青年の眼前を、ヒォンと高速でかすめていくものがあった。慌てて首を引っ込める。狙いを外した鉛玉が耳障りな音を立てた。
多勢に無勢である。すでに青年の息は上がり、足はもつれそうになっている。一方、追手の死者たちはまったく疲れた様子が見えない。頭数、手持ちの武器、体力差。どれをとっても勝ち目がなかった。
追いつかれるのは時間の問題だ。ひたすらに足を動かしていた青年は、調子の変わらない男をちらりと見遣った。自分が囮になれば、男は逃げ延びることができるかもしれない。そう判断したのだが。
「僕のことは放って、一人で逃げたらどうですか」
決死の提案は、あえなく撥ね退けられた。
「弾避けがあった方が都合がいい」
「この体格差じゃ防ぎきれませんけど?」
飄々と言ってのける男に、なおも青年は食い下がる。がっしりとした体つきの男に対し、青年の体格は長期入院のせいもあって華奢だった。身長も男の方がずっと高い。守られることはあっても、守れる部分がないのは火を見るより明らかだった。
男は青年に一瞥をくれると、挑発的な笑みを浮かべた。
「じゃあ、弾道でも読んで守ってくれ」
言うが早いか、男は青年の腕をつかんで、抱き込むように引き寄せた。そして、自身の体を青年ごとすぐそばの建物の壁に押し付けた。自然、青年は男の胸に身を預ける形となる。
「……ッ!」
そこは、地下へ続く駐車場の入り口だった。少しの衣擦れの音ですら暗がりに反響する。自分の息と心臓がうるさい。それを意識するとさらに早まっていくように感じられた。
抗議の声も、口をおさえつけられて発することができない。時折、男の息遣いが青年の髪を揺らした。身を強張らせて、騒々しい足音の集団が通り過ぎるのを待つよりなかった。
「…………近い、ですよ」
力を緩められて最初にこぼれ出たのは、そんな弱々しい文句だった。
「今さらじゃねえか」
体を離して、呆れたように肩をすくめた男に、青年は当惑した眼差しを向けた。
「どうして、見捨てなかったんですか」
責めるような口調になってしまう。あの状況で、自分が足手まといでしかないことは明白だった。そして、男を非難するのがお門違いなのも理解しているのに。
「さあな。記憶が戻ればわかるんじゃないか?」
男は表通りの様子を確認しながら、背中越しにそう言った。青年をはぐらかす際にいつも使う常套句だ。こう言われてしまえば、青年は黙るしかなかった──いつもならば。
だが、状況が青年の距離感を狂わせていた。いつもよりも、青年は踏み込んだ本音を漏らす。
「僕は、記憶を取り戻すのが怖いんです」
弱音を吐くのはほとんど初めてだった。その認識すら、今の青年にはなかった。ただ一度、見捨てられなかった経験が、青年の胸の内に堆積していた不安を顕在化させた。
「過去の記憶が戻ったら、今度は、今の記憶がなくなってしまうんじゃないかって」
自分の口から紡がれる言葉に戸惑ってもいた。言葉にすることで初めて、青年は自分が心細かったことを知った。そんな驚きがあった。
「ま、何かを持とうと思ったら、今持ってるもんを手放さなきゃならんわな」
途方に暮れてうなだれる青年の頭に、向き直った男はそっと手を置いた。男の方もまた、いつもと異なることに、青年の不器用さでは気づけるはずもなかった。
人気のない駐車場に薄く差し込む西陽が、二人だけの影を長く長く浮かび上がらせていた。
2
物語が続くので、彼らもまた歩き続けた。高架上の線路を、色の沈んだ商店街を、落ち葉の積もった坂道を。彼らは黙して歩いた。はじめのうちは行先を尋ねていた青年も、「行けばわかる」の一点張りに、ついには閉口した。
そうしてたどり着いた先に、古びた木造アパートは佇んでいた。夕闇にかすむシルエットは、その存在の真偽を曖昧にしていた。建物に近づいて外壁のひびや染みを視認してもなお、目を離した瞬間掻き消えてしまうのではないかという錯覚に陥らせた。
階段下には居住者用の郵便受けが設置されていた。一階と二階の分が二段に分かれていて、そのうちの上段左端がチラシや郵便物でいっぱいになっていた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれている紙類の隙間にさらに差し込まれてかろうじてぶら下がっている一枚を無造作に引き抜き、男は青年に寄越した。
見たところ、電気だろうか、公共料金の督促状のようだった。寮暮らしの青年は、記載されている数字の多寡について何の知識もなかった。当然、宛名にも馴染みはない。
男の意図がわからず眉根を寄せていると、ため息とともに紙片を奪われ、地面に捨てられた。
「なにしてるんですか!」
思わず声が出た。拾い上げて郵便受けに戻す。ついでに、溢れている郵便物も揃えて入れなおした。
男はと言えば、耳の後ろをぼりぼりと掻いていた。
「うるせえな、こんくらいのことで」
一連の行動とその言い草に引っ掛かりを感じて、また不安がよぎった。
「……記憶を失う前の僕なら、許していましたか?」
「いや、記憶があっても、おんなじことを言っただろうな」
男はすでに、さび付いた鉄製の外階段に足をかけていた。青年も後に続く。
雨ざらしの階段は、一歩踏み込むたびにみしみしと軋んだ。手すりに触れれば赤さびの粉が付着した。どうしようもなく胸の底が寒くなった。
二階の一番手前の部屋には、鍵がかかっていなかった。遠慮する素振りも見せず、男はさっさと入っていく。
殺風景な部屋だった。六畳一間の中央にちゃぶ台と壁際に衣装箪笥が一竿、めぼしい家具はそれだけだった。卓上には、傘状のカバーに覆われた食事が一人分。お世辞にもあまり美味そうには見えなかった。
「何か思い出さねえか」
先導した男の声にわずかな期待の色を察知して、青年は憶測を口にした。
「もしかして、僕が生まれた場所なんですか」
「生まれた場所かは知らねえがな」
それはほとんど肯定の意だった。
感慨などつゆとも湧かない。欠落した記憶の一ピースを示されたところで、書類上に並んだ経歴を眺めるのと同じだ。これらはただの情報でしかなく、感情を伴うことはない。
「僕のことは、昔から知ってたんですか?」
「まぁ、な。昔っから、口うるさくて真面目な……クソガキだったよ」
青年には見えない何かを見ているような遠い眼差しだ。男が求めるものを青年は持ち合わせていない。そのことに少しだけ寂しさを覚えた。
「すみませんね。ここで思い出せばドラマチックだったんでしょうけど」
「本の読み過ぎじゃねえのか」
男は勝手知ったる調子で台所に立ち、湯を沸かし始めた。その背に、ふと湧いた疑問を投げかけてみる。
「さっきの死者はあなたの知り合いですよね。僕の知人は、どうして出てこないんでしょう」
立っているのも落ち着かなくなって、ちゃぶ台のわきに正座する。お盆の上に、子ども用の箸が置かれているのが見えた。男の話が真実だとして、これを使っている自分が想像できない。用意してくれたであろう人の顔も。
「みんな無事に生きてるからじゃねえか?」
「天涯孤独なのに?」
「俺が、幸せな家族から引き剥がして、お前さんだけを連れてきたのかもな」
見え透いた嘘をつく男に対し、やりきれない思いが募る。
男は、ぞんざいに湯飲みを二つ置き、やかんで煮出した茶を注いでいく。そして片方を口元に運び、息を吹きかけながら啜った。こちらを眺める彼の目は、「飲まないのか?」と穏やかに問うている。
なぜだか無性に腹が立った、この男は誰だ、この男は誰なんだ。どうして、懐かしむような目で自分を見る。
衝動の赴くまま、青年は、男の胸ぐらをつかんでぶつけるように唇を重ねた。ちゃぶ台が跳ねて茶がこぼれたが、無視した。男の余裕を剥がして、素性を暴いてやりたかった。
手を放して像を結んだ男の顔にはさして驚いた様子はなく、苛立ちはちっとも紛れない。それを悟られたくなくて、青年は顔をそむけた。自分の稚拙さがつくづく嫌になった。
だからだろう、男の手が後頭部の髪に差し込まれたのに反応が遅れてしまった。引き寄せられ、こめかみに口づけを落とされた。首をひねる間もなく、男は離れていった。
「次は、舌を噛み切ってやります」
歯の隙間から漏らした声は、悔しさが隠しきれていなかった。何をしても、結局は自分の狭量を突き付けられるばかりだ。
「なら、どっちが噛み切れるか、だな」
男はゆったりと構え、鷹揚に応えた。
急に、もったいないことをしたように感じられた。いいように弄ばれているのだ。一瞬浮かんだそんな考えを頭から追い出して、青年は男に向き直った。
「……もう一回、いいですか? 舌は、噛み切りませんから」
返事の代わりに、体ごと距離を詰められる。舌を絡め、呼吸すら奪い取るように口を呑まれた。いつの間にか男の背に回してしまった指先が、くたびれたシャツに深い皺をつくる。二人分の唾液が喉を下って行った。
時も場所も忘れて、与えらえる行為に耽りたかった。だが、他でもない彼らの立場が、それを許してはくれなかった。
3
雨が降る直前のような、特有の濃艶な空気が満ちていた。
深い口づけの余韻を引きずって、青年はほうっと熱い息のかたまりを吐き出した。部屋の中の湿度がまた上昇した。
恒久の黄昏をはめ込んだ窓枠のみが、室内を照らす光源だった。厚い雲の割れ目から、赤く染まった光が死者の世界におぼろげな形を与えていた。
未だ火照りが抜けきらぬ青年越しに、男は窓の外を眺めていた。
重く翳る空を裂くように、一本の光の筋が走っていく。彼らのほかに、今回のステラバトルに召集された星の騎士のようだ。ならば、行く先は一つだ。
「こんなことしてるから、先を越されちまったじゃねえか」
「すみませんね、僕のせいで」
青年は頬を上気させて、口元を手の甲でぬぐった。男はその様子を、まるで眩しいものを見るような目つきで見つめた。
「ま、いい感じに気も抜けたしな」
男が返したその言葉の意図が、揶揄いなのか労いなのか、青年には判別がつかなかった。ただ、時が満ちたことだけは否応にも理解した。
男の手が、くっと青年の顎を捕らえた。視線がかち合う。口づけの先触れのような予感に、青年の目は蕩けていく。
互いの瞳を覗き込んだまま、二人は二人のためだけの言葉を重ねた。
「『お前さんは俺のもの』」
「『あなたは、僕のもの』」
誰よりも近くにいる、届かない男を想い、青年は身を委ねた。
青年の体は黒い霧となって弾け、渦を巻いて男に纏わりつく。その霧に触れた部分から衣服が変化してゆく。
黒霧が晴れて現れ出でたのは、正絹の黒い紋付き羽織袴に雪駄を履いた、晴れ着姿の男だった。腰には飾りのない白鞘の直刀を差している。
具合を確かめるように軽く腕を動かした後、茜と藍が交わる空に衣を翻し、男は死の花が咲き乱れる庭園へと駆け出した。
4
枯草ばかりの花野に、男が立っていた。男は苦境に立たされていた。
妄執に囚われた
白い無慈悲な切っ先が丸腰の男に振り下ろされた、その瞬間。
青年の意識ははじかれたように覚醒した。
「だめだ─────────!」
世界は空中で凍結した。
男の体を包む黒い装束が一瞬にして褪せた。そして、羽織がゆらりと揺らめいた。倒れる男を支えるように波打ち、傷をいたわるように助け起こした。
再び敵に相対した男の手には、ひび割れ黒ずんだ白鞘が握られていた。抜き身の刃は妖しい輝きを放っている。
女王の狂った笑い声が、遠ざかる雷雨の残響のように聞こえる中、青年の意識はざらついた息を吐きながら眠りについた。
5
自室の次に見慣れた天井が映って、青年はぼんやりとまばたきをした。二、三度と繰り返すうち、意識ははっきりとしてきた。
青年は、布団の上に寝かされていた。身体に掛けられた埃っぽいにおいを放つ上掛けにも見覚えがあった。何度言っても、部屋の主が碌に干そうともしない逸品だ。だが、今はその匂いが愛おしくさえ思われた。寄る辺となる記憶の乏しい自分が知る、数少ない匂い。なにより、生きた人間の気配が息づいていた。
─────帰って、こられた。
こちらの様子に気づいたのか、窓際で胡坐をかいていた男がおもむろに立ち上がった。
「体くらいは拭いてやるから、脱げ」
寝ている間、ずいぶんと汗をかいていたようだ。男に言われるがまま、しっとりとしたシャツの裾を掴んで頭から抜いた。
素肌がひんやりした空気に触れた。すると、口笛でも吹きそうなくらいのあっけらかんとした声が降ってくる。
「すげえな」
「これ、は……」
視界に飛び込んできた自身の体に、息を呑んだ。痩せ細ってあばらの浮いた胸部に、バッサリと袈裟懸けの刀傷がついている。傷痕を指でなぞってみた。すでに癒えているが、夢の中で受けた一撃と合致していた。痛みがないのがかえって妙な心地を覚えさせた。
「でも、ま、よかったじゃねえか」
男が水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。怪訝な顔を向けた青年に、諭すように笑んで見せる。
「『記憶が戻ったら今の記憶はなくなるのか』って心配してただろう。これで忘れようはねえわな」
「そんなこと、よく覚えていますね」
「『記憶を取り戻す』のが願いだからな。これくらいは覚えててやるさ」
目が覚めた時は存在することすら気がつかなかった傷が、男に気遣われた途端、にわかに痛みを主張し始めて青年は顔を顰めた。胸にあてた手をぐっと握りこむ。
「らしくないことを言いますね」
「見限ったか?」
「まさか。……でも、あなたは」
言葉に詰まる青年に、続くはずだった問いを汲み取って、柔らかな声で男は答えた。
「安心しろ。俺はお前さんのモンだ」
男の声が耳から入り込んで、器官の内側をなぞっていくようだった。痛みの奥に、名付けようのない疼きが沸き起こる。青年は自分の息がひどく湿っているのを自覚した。早く、どうにかなってしまいたかった。それが何かわかってしまったら、もう戻れなくなる。
「痛むんです。……介抱してくれるんじゃないんですか」
言葉が上滑りになる。口と意識が乖離していく。脳が焦げ付いたように熱い。
「言ってみな。望むとおりにしてやるよ」
それでも男は、青年に言質を要求した。優しくて、ひどい人だと思った。
青年の唇は震えていた。身体が熱くて仕方がなかった。これを鎮める方法なんて知らない。ただ、もっと近くへ行きたい。ほんのひと時だけでも、自分のすべてをこの人のものにしたいと思った。
青年は、強請った。
「痛く、してください」
「……そうか」
男はじっと目を細めた。大きな手が伸びてくる。覆いかぶさられ、首筋に呼気を感じながら、青年はうっそりと目を閉じた。
失くしてしまった記憶、忘れたくない感情、言葉にできない欲求。それらの真相について、男は何も教えてはくれないだろう。これからもきっと。
だから、男を介して自分の体に刻みつけようと思ったのだ。痛みはその手段を取るのに最適なはずだ。もし間違っていたとしても、少なくとも男の中に残すことはできる。
残像が消えゆく運命ならば、その最後の瞬間まで男と共に在りたいと青年は願った。
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