それを真の名で呼ぶならば

宮前薫

/// 前日譚 /// 長いトンネルを抜けると

 記憶を失う前の僕は、随分と努力家だったらしい。

 退院してすぐに判明したことによると、籍を置いている大学では学費免除の待遇を受けている。入学時こそ経済的事由を有する学生のための特待奨学生枠だったようだが、一年生の後期からは一貫して成績上位者の権限を利用していると、二年生前期の成績通知書が告げていた。年間取得単位数の上限も解除され、飛び級も可能だという。容赦のない大事故が 1 年半かけた学習内容を根こそぎ奪っていってしまったから、また一から学び直しになるのだが。ステラナイトには特別な援助も出ると聞いたけれど、不確かなものにはあまり頼りたくなかった。

 しかしながら、失った記憶を自力で埋める方策は、早々に暗礁に乗り上げてしまった。直近のたった一年の出来事すら、くまなく調べ上げるのは不可能に近いと思い知らされた。不毛すぎる作業に根を上げてしまったと言うべきか。

 代わる代わる見舞いに来た友人たちを質問攻めにしてみたけれど、結果は徒労に終わった。友人関係には一線を引くタイプだったと判明しただけでも僥倖かもしれない。

「なんだ、女にでもフラれたみてえな顔してるな?」

「わかってるんだったらほっといてください」

 意外そうな顔をして二本目のタバコに火をつけた、目の前のこの男が一番の謎だった。

 中学まで過ごしていたらしい養護施設に確認して、自分の生い立ちを軽く洗ってみても、どうにも接点が見つからないのだ。

 時折、遠くを見るような目でこちらを見つめて、目が合うと寂しげに笑って見せる。ほら、今だって。

 深夜のファミレスは、他に客が 2、3 組いる程度で閑散としている。うるさいと感じるくらいの音量でがなりたてる有線の BGM がいっそ寒々しい。

 ぬるくなったコーヒーをすすりながら、ちらりと前方を盗み見る。不思議な人だ、と思う。

 刈り上げられた頭髪には白いものが混じり、曖昧に見せる笑顔は目尻にシワを作る。背丈は僕よりも頭一つ分高いけれど、座って向かい合っていれば目の高さは同じくらいだ。がっしりした体つきも、物臭げに頬杖をついて紫煙を燻らせている姿勢ではあまり目立たない。いかにもくたびれた風を装っている彼は、それでいて油断なく目の奥を光らせていた。

 顔を合わせるのは、覚えている限りでは二度目だ。一度目はまだ入院中だった。

 他の見舞客が帰った後、面会時間の終了間際に現れた。記憶を失っているのだから当たり前だが、知らない人だと思った。相手が何者かわからなかったのは皆同じだったし、他の皆にしたように、事故の経緯と後遺症の記憶喪失について説明した。彼は、傍から見てもわかるくらい呆然としていた。信じられないものを見るような顔でしばらく固まった後、やや間をおいて「そうか」と言ったきり黙った。こんな反応をした人は他にいなくて、なんと声をかけてよいものかこちらの方が困ってしまった。

 病室に入ってきた時は、大人の男として振る舞うことに慣れた人だと感じたから、あからさまに目を見開いたり、心ここにあらずの調子で返したりする様を見て、彼が相当に取り乱しているのだと察せられた。

 真白の病室に沈黙だけが降り積もっていった。痛みに耐えるような、切羽詰まったような顔をしたまま、彼は何も話そうとしない。こんな顔をさせてしまうなんて、よほど親しい間柄だったのだろう。何一つ思い出せない自分が本当にもどかしく、申し訳なかった。何か、何でもいい、彼に寄り添う言葉を、彼の傷に触れる資格を欲した。

(何もかも全部、思い出せたらいいのに……!)

 我ながら悠長なことだけれど、この時初めて、痛切に感じたのだ。

 それから今までの出来事は、なんだか夢見心地だ。いや、病院で目覚めてからずっと、自分の身に起きていることなのにどこか他人事のようでふわふわと現実感がない。

 突如として眩い光に包まれたかと思ったら、不思議な空間で女神を名乗る女の声が僕たちに告げたのだ。「同じ願いを宿す者たちよ、世界のために剣をとれ」と。何が何だかよくわからないままに、僕たちは世界を取り戻す聖戦の先鋒、星の騎士ステラナイトに選ばれ、それを了承したのだった。




「女神が言っていたこと、どう思いますか?」

 彼の視線に耐えきれず、こちらから切り出した。

「胡散臭いわな」

 胡散臭さに服を着せたような男は、事も無げにさらりと答えた。悔しいけれど同意見だ。冷めたコーヒーは苦みが強くなっていて、それに顔を顰めたふりをする。

 この世界をつかさどるという、ふたりの女神様。ほんとうにそんなものがいるのなら碌なやつじゃないだろうと、何とはなしに思っていた。自分の身の上を振り返ればなおのことだ。

 久方ぶりに訪ねた──感覚としては初対面なのだけれど──養護施設のシスターは、近況を伝えると沈痛な面持ちで、「神様はなぜあなたばかり不幸な目に合わせるのでしょうね、可哀そうに」と嘆いた。幼少期に両親を相次いで亡くし、ようやっと独り立ちできたかと思った矢先に、事故で記憶喪失──文面で見ても悲惨としか言いようのない生い立ちだ。こんな人生を与えておいたあげく、今度は世界を救ってくれだなんて、この世界の神様ってやつはずいぶんいい性格をしておいでのようだ。

 何が面白いのか、目の前の男はくつくつと喉を鳴らしながら灰皿に灰を落として、「まあ、しかし」と続けた。

「利用すりゃあいいんじゃねえの? 女神サマも、俺のことも」

 記憶がないままじゃ不便だろ、と意味ありげに視線を寄越す。

 ああ、この人は。いったいどういうつもりなのだろう。

 ステラナイトの条件が嫌でも脳裏によぎる。「同じ強き願いを持った運命のパートナー」と言っていたか。性格に難はあれど、女神が嘘をついていないことは直感で分かった。

 だから余計に謎が深まるのだ。僕のパートナー、すなわち目の前のこの、素性不明の男もまた、僕の記憶を取り戻したいと強く願ったことになるのだから。

 まるでつかみどころがない男だが、記憶喪失を告げた時の、病室で見せたあの顔は本心だったように思う。けれど、以前の僕たちはどんな関係だったのか、結局彼は教えてくれないままだ。僕の何が、彼にあんな顔をさせたのだろうか。彼は僕に、何を思い出してほしいのか。思い出してみるまで分からない相手が“運命のパートナー”だなんて、つくづく聞いて呆れる。

「そうですね、僕にはそれ以外選びようがないですし」

 不可解さが棘を含んで声に表れてしまった。彼はまた、先ほどと変わらぬ笑みで本心を隠している。

 もやもやが澱のように、胸の内に募っていく。ここで謝るのも違う気がする。目が覚めてからずっと、よくわからないことをよくわからないままにぐるぐると考え続けているから。だからなのだ、と思うことにする。誰に聞かせるわけでもない言い訳を、心の中で繰り返す。

 耳の奥で、キィンと怜悧な音が響いたのは、次に口にすべき言葉を考えあぐねて堂々巡りをしている時だった。

 彼が眠たげな瞼をピクリと上げる。

「へえ、便利なもんだなあ。これが合図か」

 こちらの表情を探るように、そう笑いかけてきた。そうみたいですね、とだけ返し、テーブルの伝票を取り上げて、僕は出口へ向かった。




 夜中の公園に、自然と足が向いた。当然のように誰もいない。昼間に通りがかったときは、遊具に鈴なりに子どもたちが群がっていて、ベンチや芝生にはそれを見守る親と思しき大人たちや、憩う人々で賑わっていたのに。辺りは妙に静かだ。

 世界にぽっかり空いた空白に嵌まり込んでしまったように感じる。僕たちにはこっちの方がお似合いだとでも言いたげな、誰からも忘れ去られてしまった寂しい場所。これから行われる儀式にはお誂え向きだった。

 わざとらしく伸びをしながら、彼が僕の後ろに続く。他人がそばに立つときの距離をあっさりと詰めて、一歩未満の間近に立たれる。気配が濃くなる。

「そう緊張しなさんな」

 予想よりもずっと穏やかな声が耳元をくすぐって、僕はもう自分でもどんな顔をしているのかわからなくなってしまった。わからないことが多すぎて、溺れてしまいそうだ。頼れるはずの自分も、運命を共にするこの男も、何も信じられない、わからない。

 肩に手を置かれてはっと我に返る。大きくて暖かい、確かな存在を感じた。靄を照らすランタンを思わせた。彼の光はまた、僕の輪郭をも定かにしていく。

「……じゃあいくぜ、『お前さんは俺のもの』だ」

 号令あいことばによって五感が急速に解放され、クリアに、鋭敏になった。

 僕は今、自分が為すべきことを確信した。目を閉じ、ひそやかに息を吐いた。

「『あなたは僕のもの』」

 自由と帰属を同時に得た。自分の存在が拡がり、すぐさま彼の周囲に収束する。

 僕の体は、彼の振るう剣、そして彼の身を守る衣に変化していく。

 彼を包み込んだ時、霧中を彷徨った思考はようやく一つの答えにたどり着いた。

 そうか、僕は────嫉妬していたのだ。彼の目が見つめる、過去の自分に。自力ではどうあがいても取り戻せない自分自身に。




 この答えが指し示す未来に、僕は進まなくてはならない。僕が生きる世界はそういう風にできている。

 彼が笑っている理由が少しだけわかった気がした。誰にも見えやしないだろうけれど、僕も今、きっと笑っている。

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