10 伊吹は別れを告げ、ゆっくりと目を閉じる

「あっ……は……」


 伊吹は急速に視界が狭くなるのと体温が下がっていくのを実感し、

 自分が助からないことを悟った。


 最後に愛する娘の顔を見たかった。


 けど、アイは伊吹の足側に寝かせてあるから、姿が見えない。


 アイの安否を確認したくて身をよじろうとしたが、

 身体の何処にも力が入らない。


 特に下半身は完全に感覚がなくなっていた。


 もしかしたら繋がっていないのかも知れないが、それすら確認できない。


 胸中でアイの名を呼び、

 せめて津久井の放った攻撃が私の腹を引き裂いただけで止まっていてほしいと願った。


「ママ?」


 寝ぼけたようなアイの声が耳に届く。


 良かったと安堵の息を漏らし、伊吹は幻聴でないことを祈る。


 声をかけたい。


 でも、口から溢れるのは愛の言葉ではなく大量の血だった。


 嘘くさいくらい綺麗で真っ赤な色がタイルに広がっていく。


 アイを護って死ねるのなら、母親として本懐を遂げたも同然だ。


 けど、出来ることなら、最後にアイの元気な顔を見たかった。


 願いが通じたのか、アイが傍らで覗き込んできた。


 色を失い始めた視界でも、

 アイの金髪と可愛らしい顔は、ハッキリと見える。


 最後に嫌な姿を見せてしまった。


 母の死に目なんて、子供が見るものじゃない。


「ママ!」


 アイの顔から涙がたくさん流れてきた。


 最期に見るのが泣き顔だなんて悲しすぎる。


 伊吹は祈った。


 アイの笑顔を見たい。


 だから、お願い。

 イレーヌ。

 私に愛する子を抱く力をください。


 腰から下の感触がまるでなく、仰向けになるのすら困難を極めた。


 辛うじて想いに応えてくれた右腕に力を入れ、両肩を捩じる。


 血まみれで震える細い腕を動かし、アイの頭を胸に抱き寄せた。


 泣く子をあやすには、母の心臓の音を聞かせてやれば良いのだ。


 腹が致命傷を負ったというのに、

 神経の繋がっていない心臓は我知らず一定のリズムで鼓動している。


 伊吹は消えそうな命と意識の中で、どれだけの言葉をアイに残せるだろうかと考える。


 しかし、夜更かししたみたいに頭がぼうっとし、思考は霧散していく。


 このまま目を閉じて寝てしまいたかった。


 言葉を探すことすら困難なので、

 曖昧な意識の中、ただ、心にある言葉をそのまま口にする。


「愛してる……」


「アイもママ大好き」


 伊吹には見えなくても、アイが頬をすり寄せてきたことが分かった。


 けど、

 柔らかな肌に触れたはずなのに、殆ど感触が分からない。


 涙を啜る音だけが聞こえる。


「……ははっ。終わりだ。

 さあ、邪魔者はいなくなった。

 アイーシャ、お前の心臓を……貰うぞ」


「ああ、確かに終わりだ」


「なにっ――」


 鈍い衝突音とともに、津久井の声が途切れる。


 遠くなった音だけの世界では、

 何が起きているのか、はっきりとは分からなかった。


「……遅れて済まなかったな。

 津久井はもう動けない。全員、片付いた」


 関が傍らに来たようだが姿は見えないし、声が微かに聞こえる程度だ。


 口を開く体力も無かったので、伊吹は愛想笑いを浮かべた。


「ああ。よくやった。桐原。

 もう少しだけ無理をしろ。

 来たぞ。あの勢いだ。

 信号無視は当たり前として、

 人ひとりくらい跳ねているかもしれないな」


 物の色や輪郭はもう認識できなかったが、光が動いているのは分かった。


 車のヘッドライトが近づいてきているのだろう。


 タイヤがアスファルトを滑るような音もする。


「事後処理は任せておけ。お前は何も気にせずに休め」


 関の気配が消える。


 伊吹は薄弱とした意識の中で、駆け寄る二つの足音を聞いた。


 安堵したのか、全身を包んでいた倦怠感が少し安らいだ。


「伊吹ちゃん、どうしたの。嘘、何これ」


「伊吹! なんで、こんな」


 絵理子と柚美が血相を変えて、駆け寄ってきた。


「やだ。やだやだ。やだ。伊吹ちゃん。伊吹ちゃん」


 柚美に、どんな言葉をかけようか悩んだ。


 けど、気の利いた言葉なんて見つからない。


 不思議と落ち着いた気持ちだった。


 傷口は既に血を流し終えているのだろう。


 身体から命が零れていくような、嫌な感覚は既に尽きていた。


「馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿」


 絵理子がアイを押しのけて、覆い被さるようにして抱きついてきた。


「何でこんなことになってるのよ、馬鹿っ。

 馬鹿っ! 無茶するなって言ったでしょ!」


「……お姉ちゃん。ありがとう」


 頭がぼうっとしてきたせいか、懐かしい思い出と混濁しているのか、


 伊吹は自分でもよく分からないまま、

 ふたりきりでいるときの呼び方で絵理子を呼んだ。


「馬鹿ぁ」


 伊吹の頬に冷たい物がポツポツと落ちてきた。

 絵理子も涙を堪えきれなくなったようだ。


「そうだ。アイちゃん!」


 柚美が縋り付くような眼差しをアイに向けていた。


「アイちゃん吸血鬼なんでしょ。

 アイちゃんが血を吸えば、伊吹ちゃんも吸血鬼になるんでしょ。

 そうしたら、助かるんでしょ!」


 柚美がアイの小さい肩を両腕で掴み揺さぶる。

 必死な形相に怯えたのか、アイは「ノン」と仰け反った。


 まったく柚美さんは我が儘ねと、

 ため息をついたら、息が楽になった。


「……吸血鬼は感染症だって言ったでしょ。

 血を吸われても発症するまでに数時間かかる。

 だから、手遅れよ……。

 なんだか痛みもなくなってきたし、凄く楽になってきた。

 最後の最後に会いたい人たちに会えた。

 思い残すことはないわ」


「やだ。やだやだ、やだ」


「伊吹、しっかりしてよ」


 柚美と絵理子がしがみついてきた。

 アイは事態が飲み込めていないのか、きょとんと伊吹の様子を見ている。


「ママ、こんなところで寝ると風邪ひいちゃうよ?」


「アイさん、来て」


 絵理子と柚美も、

 最後まで寄り添いたいのだろうが、涙をこぼしながら身を引いた。


 思い出の最も少ないアイに最期の時間を譲ったのだろう。


 伊吹はアイを抱きしめる。


 無力だった両腕に、伊吹の意志が伝わった。


「強い子に、育ってね」


「うん。アイね、ママみたいに強くなるよ」


 伊吹は強い母を演じたいけど涙が溢れた。


 堪えていたのに、とめどなく溢れた。


「いたい、いたいよ……」


 涙が止まらない。


「伊吹ちゃん!」


「伊吹ッ!」


「ずっと、一緒に……いたい……よぉ……」


 桐原伊吹は三年前、

 事故で心臓に重傷を負ったが、心臓移植により命を長らえた。


 リハビリの甲斐もあり日常生活に復帰した。


 しかし、心臓は、完全には適合しなかった。


 医師からは余命一年と宣告されたときは、目の前が暗くなった。


 初めは自暴自棄になった。


 けど、いつからか、人の命をもらって生きながらえたのだから、

 残り僅かな時間を大切に凄そうと思えるようになった。


 そして、

 心臓に宿った遺志に導かれたのか偶然なのか、

 今日、アイーシャに出会った。


 最後は、身中から溢れだす想いに突き動かされて、

 アイを護るために身を投げ出した。


 けれど、けして心臓に操られていた訳ではない。


 余命が残り僅かだから、投げ遣りになったわけでもない。


 きっと伊吹は自分の意思でアイを愛したのだ。


 だから、ずっと一緒にいたかったと、未練だけが残った。


 イレーヌの娘アイーシャを護りきり、

 桐原伊吹はゆっくりと目を閉じた。

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