9 伊吹は己の身と引き換えにアイを護りきる

「ずえいっ!」


 先に動いたのは津久井だ。


 だが、津久井が踏み切る瞬間、

 伊吹は既に左足を真横へ移動させている。


 津久井は剣道を習い始めた初心者程度の動きだ。


 予備動作に入った時点で、

 伊吹には相手がどう動くか手に取るように見えていた。


 カンの鋭さと反射神経は伊吹に相手の面を叩き割らせる。


 はずだった。


 伊吹は確かに見切っていた。


 だが、身体能力の衰えはあまりにも残酷で現実的だった。


 全身はあまりにも遅く、意志についてこない。


「くっ!」


 左肩に走った激痛が、攻撃を中断し横に飛べとせき立てる。


 直感に従って伊吹が全力でタイルを蹴った直後、

 左側面を突風が過ぎた。


(くっ……!

 あと一歩前にいたら左腕がなくなっていたわね……)


「外科医として忠告しよう。

 その左肩は十針は縫う傷だ。

 お前の体格だと、直ぐに止血しなければ死ぬ危険もあるぞ」


「私からも忠告よ。

 娘を思う気持ちは私の方が強い。だから、私が勝つわ」


「くだらん!」


 津久井が踏みこんできたので、

 伊吹は水の刀を突き出すようにして牽制しつつ、

 大振りの攻撃を横にかわす。


 攻撃範囲は見切っているが、

 予想以上に伊吹の身体は鈍いし、

 負傷した直後なので慎重にならざるを得なかった。


 再び津久井の突進を避けたとき、疑念が過ぎる。


(何故、津久井は遠距離攻撃をしてこないの?

 デパートでは天井の蛍光灯を割っていた。

 もしかして出来ないの?)


 津久井には伊吹のように試合慣れしているような様子はない。

 手から不可視の斬撃を放つだけの、ただの素人に見える。


(遠距離攻撃をする素振りさえない。

 牽制やフェイントにすら使ってこないのだから、

 津久井は何かしらの理由で拳にまとった暴風しか使えない?

 風を飛ばせないの?)


 伊吹の推察は的を射ている。


 津久井はデパートで伊吹を振り切った後に、関と遭遇して戦っている。


 その際に能力を行使し過ぎたため、殆ど余力を残していなかった。


 無尽蔵の体力を持つ関が例外なのだ。

 その関を基準に考えている伊吹は相手の強さを過大に見積もっていた。


 関は彼の所属する組織で戦闘部門のエリートだ。

 様々な戦場を渡り歩いてきている。


 一方、津久井の配下たちは研究部門の所属なので、

 桧山のような例外を除けば大半が戦闘経験すらない。


 だが、伊吹は彼等を取り巻く事情には踏み込まないので知る由はない。


 伊吹は攻撃を回避しながら立ち位置を変えつつも、攻めあぐねていた。


(周囲から吹き込む水しぶきのおかげで、

 津久井の纏った風が見える。

 これなら、やれる!)


「ちっ」


 津久井の焦りを見逃さず伊吹は踏み込む。


 常より大きく上段に振りかぶり跳躍した。


「たあああっ!」


 腋を締め肘を伸ばし、真っ直ぐに刀を振り下ろす。


 津久井が腕を頭上に上げた。


 わざわざ上段に構えて見せたので反応できて当然だろう。


 伊吹の狙いは面ではない。


 手首を返し、刀の軌道を変え、胴へと変化させる。


 伊吹は、全身が水中に没したかのように、

 ゆっくり動いていると感じたが、

 稽古の記憶どおりに動いてくれた。


 型をなぞる様に切っ先は流れ、

 津久井の腹にめり込む感触が伊吹の手に伝わってくる。


 剣道のような『当てる』振り方はしない。


 押し、振り抜く。


 伊吹は津久井の脇を通り過ぎて立ち位置を変えるときに、

 津久井の腕から竜巻が形を崩して霧散する風圧を感じた。


 渾身の一撃を喰らわせたのだから、

 津久井は血反吐を吐き悶絶するはずだ。


 伊吹は敵の頭部を叩いて意識か戦意を奪うため、

 中段に構え直し津久井の背後から機を窺う。


 勝機は手中にあった。


 桐原伊吹が異能力者を相手に健闘できたのは、

 四歳から始めた剣道の経験があったからだ。


 そして。


 決定的な勝機を逃してしまったのも、剣道の経験があったからだ。


 一本を決めた後に残心を取っていたので、

 伊吹はけして油断していたわけではない。


 だが、背後から攻撃するという発想はまるでなかった。


 相手の仕切り直しを待ってしまった。


 その僅かな時間。


 津久井の執念が弾ける。


 伊吹は相手を見誤っていた。


 ただの女子高生に過ぎない伊吹が、

 命をかけて異能者と戦おうとするほどの強い決意は、

 自分だけのものだと思っていた。


 だが、目の前の男にも同等の動機と覚悟があった。


 津久井の想いが、肉体の限界を超える。


「おおおっ!」


 脂汗をたらしながら津久井は振り向きざまに、

 腕から真空の刃を飛ばした。


 津久井は短い髪を振り乱し、腹の底から雄たけびを上げる。


 津久井が右腕から攻撃を放つのだから、伊吹は右に避けようとした。


 しかし、伊吹の右には玄関の屋根を支える柱があったため、

 逃げ場は左側にしかなかった。


 伊吹は左側面に身を投げるが、一瞬の遅れが命取りだった。


 伊吹の右腕は真空の渦に巻き込まれ、裂傷が無数に生まれた。


 夢で、イレーヌの致命傷となった攻撃だ。


「あぐっ!」


 伊吹は横転してタイルを二メートルほど滑る。


 手放してしまった刀は、形を崩して水に戻って散った。


 伊吹は慌てて手を伸ばすが、既に刀は消滅している。


「くっ……うっ」


 失血のせいで、急速に意識が薄らいでいく。


 朦朧とする中、歯を食いしばって起きあがろうとするが、

 津久井が迫ってくる方が早い。


「すみれの余命は尽きているんだ!

 救うためには、吸血鬼の心臓が必要なのだ!」


 津久井の顔が熱した鉄のように赤く歪む。


「3年待った!

 娘に移植できる大きさになるまで、

 その成長を待ってやったのだ!」


 津久井は切迫し、自らを奮い立たせるために叫ばなければならないほど、先程の伊吹の攻撃で限界に達している。。


 伊吹は津久井に体裁をかなぐり捨てさせるほどに肉薄していたが、

 僅差で負けたのだ。


 いや、まだだ。


 伊吹は倒れたまま拳を握り、津久井を睨みあげる。


「まだ負けてない!」


 伊吹は血まみれの腕に力を込め、ふらつきながらも立ち上がる。


 震える膝を押さえたままという不格好な前傾姿勢だったが、

 伊吹は顔を上げ、津久井に路を譲らぬ意志を突き付ける。


「アイさんは渡さない」


「黙れ!

 あの小さい身体で一体どれだけの痛みを耐えていると思うんだ。

 七歳だぞ! 

 七歳の子供が、苦しみで夜も眠れずにうなされ、血を吐きながら、

 それでも生きたいと言っているんだ。

 親が必死になって何が悪い。すみれの生きる権利を奪うな!」


「貴方がなりふり構わなかった理由が分かったわ。

 けど、それは、アイさんの生きる権利を奪う理由にはならない!」


「三年だ。あの子に残された時間は残り僅か三年だ!

 吸血鬼の心臓など二度と手に入らない!

 寄越せ! 心臓を寄越せ!」


「……そう。

 それでもアイさんを傷つける理由にはならないわ」


「お前が苦痛で退かないことが分かった。

 なら、心をへし折ってやる。

 救える命が一つになれば、お前も考えが変わるだろ!」


 津久井が伊吹から視線を外し、

 腕をアイに向けて構えた瞬間、風が巻き起こった。


 真空の槍が空間を穿ち、アイへと伸びる。


 瞬間、伊吹は全身に電撃が走ったかのように跳び、

 身体を盾にした。


「ごめん」


 一言残すだけの時間しかなかった。


 だが、気持ちは速く、広く、迸った。


 アイに、

 抱きしめてあげられなくなることを謝った。


 柚美に、

 些細な日常をもう一緒に過ごせなくなることを謝った。


 絵理子に、

 育ててくれた感謝の気持ちを満足に伝えられなかったことを謝った。


 イレーヌに、

 救ってもらった命を生かし切れなかったことを謝った。


 謝ってばかりじゃない私、と悔いた。


 熱いと思った。


 腹の中を灼熱の風が突き荒れる。


 肉が裂け、

 肋骨が笑えるくらい簡単に砕ける音が胸の中に何度も響いた。


 伊吹はアイを護るため、少しでも暴風の勢いを殺そうと、

 全身で覆うようにして押さえこもうとする。


 何かが千切れる絶望的な音が全身から生まれていく。


 やがて暴風が収まり、

 伊吹は膝立ちに崩れてから俯せに倒れた。


 手でかばうことすら出来ないまま勢いよく額を打ち付けたというのに、既に痛みすら感じない身体になっていた。

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