3 伊吹は友人を失う
「……ん?」
目を細めてみても、やはり、大蛇は乱入者の胴体に繋がっているように見える。
あまりにも常軌を逸していたため伊吹は驚きはしたが、危機感は抱かなかった。
軽く息を吐きながら、
リアルな玩具であることの他に、常識的に納得できる理由を探した。
しかし答えは見つからない。
乱入者がフードの下で口を開く。
「アイーシャを渡してもらおう」
感情の読めない、冷たく低い、男の声。
一方的に要求を突きつけるだけの物言いだったが、
相手が会話可能な存在だと知り、
伊吹はいつの間にか強ばっていた肩を下ろす。
「アイさんのお名前はアイーシャなの?」
「ウイ。アイはアイーシャだよ」
「そう。アイは愛称だったのね」
「ノン。アイショーじゃなくて、アイーシャだよ」
アイに怯えた様子はない。
むしろ大蛇に興味津々といった様子で目を輝かせている。
何気なくアイを抱き寄せようとし、伸ばした手が思うように動かない。
訝しんで見てみれば、手が震えていたから、
伊吹はようやく自分が恐怖していると悟った。
神経のつながらない心臓が落ち着いたままだったので、
伊吹は恐怖を実感するのが遅れてしまったのだ。
生理反応が不足しているせいで、
目の前の現実を人の話やテレビのような遠くのことのように傍観してしいる。
だから、目の前の脅威から目を背け、
傍らのアイに声をかけるなどという油断をした。
男が玄関戸を壊してから数十秒が経過し、
ようやく、頭が全身に逃げろと危機感を走らせる。
「逃げ――」
身をひるがえし、友人に逃走を促そうとしたが
直ぐ背後にいるはずの柚美の姿はなかった。
「え?」
予期せぬ事態に気を取られて足がもつれてしまい、
伊吹はアイを巻き込んで転んでしまう。
「柚美……さん?」
肘を打ったが直ぐに上体を起こして道場を見渡す。
直ぐ傍らでは押し倒してしまったアイが頭をおさえて涙ぐんでいる。
背後の数メートル離れたところでは男が剣呑な気配を漂わせている。
探し求めた人物だけが、何処にもいない。
「柚美さん……何処?」
「お前もアイーシャを置いて、去れ。追いはしない」
大蛇の這う音がゆっくりと寄ってくる。
意識したくないのに視線を大蛇に奪われていると、
小さな背中が視界に割り込んできた。
「ママを虐めないで!」
「なんでまだいるの! 貴方こそ、逃げなさいよ!」
叫び、気づけば伊吹はアイを羽交い締めに抱えて走りだしていた。
アイの姿を見た瞬間、勝手に身体が動いていた。
アイに触れた瞬間、護るという使命感が芽生え膝の震えが止まる。
ただ、アイは小柄とはいえ、
背後から脇の下に両腕を通して抱え上げるには重いし、
腕を振れないので走りづらい。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
背後を確認する余裕はないが、
襲いかかってこないのだから、男はアイを傷つけるつもりはないようだと判断。
伊吹は男が侵入してきた玄関とは離れた勝手口から外に飛びだす。
ドンッ、と崖から落ちたかと錯覚するほどの雨が圧し掛かってくる。
「くっ!」
雨の重さに負けて転びそうになるが、萎えた太ももに力を込める。
伊吹は道なりに逃げず、雑木林に飛び込む。
桐原家の敷地は広く、
森林公園丸ごと一つが自宅の敷地になっているような状態だ。
家の者でなければ、迷うことは必至。
「痛っ」
地面に落ちていた小枝が容赦なくソックスを貫き、足に突き刺さってくる。
剣道の練習で足の皮が裂ける経験は十分にあったが、痛いものは痛い。
「我慢、忍耐、鍛錬!」
大蛇に襲われるのと、お風呂で染みるのを我慢するのとでは比較にならない。
林を突き抜ければ、ヘアピン状の路地を大幅に短縮できる。
家人の伊吹だから知っている近道だ。
「アイさん。大丈夫。大丈夫だからね」
「ウイ」
伊吹はアイを励ますというより、自分に言い聞かせいていた。
腕の代わりに大蛇がはえた人間など、居るはずがない。
きっとの気のせいだ。
「そうだ。
服用している薬の副作用には『幻覚を見る恐れがあります』と書いてある。
きっと、幻覚を見たのよ」
肺は酸素を求めて悲鳴を挙げていたが、
心臓は危機的な状況にも拘らず穏やかな鼓動を刻んでいる。
アイの頭が触れているあたりから、
トクントクンと柔らかい鼓動が伝わってくる。
枝葉が頭上にあるが雨の勢いは全く衰えない。
周囲は益々暗くなり、視界が不確かになっていく。
「きゃっ」
足元がぬかるみ、時折足を滑らせては、ろくに身構えることもできないまま肩から木にぶつかってしまう。
「腕が限界……。アイさん、かけっこ、しよ。ね」
「ウイ」
伊吹は、アイを抱えるのは諦めて手をひいて走ることにした。
「ママ、早い!」
「お願い。全力で走って!」
いつ木陰から大蛇が飛び出してくるか分からないので、気が気ではない。
逃走の足が遅れると分かってはいても、何度も振り返らざるをえない。
アイの足が遅く、歩いているような速さだったが、
やがてふたりは林を抜けた。
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