2 伊吹は大蛇に出遭う

「ねえ柚美さん。アイさんのお母様を探しましょう」


「まあ、残念なことに午後の予定は開いちゃったし……。

 いや、本当は優勝するつもりだったから

 午後の決勝も出るつもりだったんだけどさ……。

 伊吹ちゃんが、私がママだよって言い出さないなら、

 付き合っても良いよ」


「言わないわよ。私、まだ高校生よ。

 アイさんには本当のお母様がいるべきよ。

 私の夢が本当なら、悲しいもの」


 むーっと柚美が唸るので、伊吹はもう少しだけ言葉を重ねることにした。


「私は、あくまでも夢の赤ちゃんがアイさんだと思っているだけよ」


「伊吹ちゃんが、そゆこと言っちゃう時点で、

 私的にはもうアウトなんだけど……」


「もちろん、私に心臓をくれたのがアイさんの母親かもしれないとも思っているわ。

 でも、けして、私自身がアイさんの母親だと思っているわけではないの」


 原則として、どの臓器であるかに拘わらず、

 提供を受ける側に臓器提供者が誰なのかは知らされない。


 提供者もまた、誰に臓器を提供するのか知らされない。

 なので、伊吹の心臓が誰のものだったかを確認する手段はない。


「むー。しょうがない!」


 柚美は声を大きくして上体を起こした。


「でも、さ。ほら。先にやることあるよねッ!」


 柚美は傍らにあった竹刀袋を手にして立ち上がり、伊吹に「分かるでしょ」と言いたげな視線を向ける。


 だが、伊吹は柚美のまなざしに心当たりがない。


「何よ?」


「剣道場に来てやることっていったら、そりゃ剣道でしょ」


 柚美は竹刀袋から竹刀を取りだす。


「あのね……。私はもう剣道はやめたの」


「退部届は出ていないってブチョーが言ってたよ」


「入院してそのまま提出する機会がなかっただけよ」


「先生が車出してんのに、

 なんで私がわざわざ道具一式を持って帰ってきたと思っているのさッ」


「貴方の都合なんて知らないわよ」


「じゃ、何度でも教えてあげる。

 私は伊吹ちゃんに剣道をやってほしいと思っている。

 ブチョー達からも『柚美なら出来る。いつもの強引さで伊吹を連れて来い』

 って言われているしね。

 さ。伊吹ちゃん、剣道やろうッ!」


「しつこいと怒るわよ」


 伊吹は余りつつかれたくない内面に柚美が迫ってきているので

 腹立たしくはあったが、直ぐ傍らにアイが居るから

 声を荒らげるわけにはいかない。


 伊吹は心を落ち着かせようと、アイを軽く抱き寄せて金髪をそっと撫でる。


 当然、柚美は伊吹に対して遠慮しない。


「伊吹ちゃん、やめたって言うわりには、トレーニングしているでしょ」


「してないわよ」


「ううん。してる。分かるよ。

 私、ずっと伊吹ちゃんの身体を見てるもん。

 ふくらはぎを見れば、その人が運動している人か、していない人かくらい、

 私にだって分かるもん」


「リハビリの一環で、お風呂上がりに少しストレッチしているだけよ」


「未練たらたらでしょ。

 中学で何度も日本一になっている人が、

 そう簡単にやめられるものじゃないでしょ」


「しつこいと怒るわよ」


「今だって、逃げ場所にここを選んだのは、

 理由を付けて剣道場に来たかっただけでしょ」


「あのね!」


 腕の中でアイがビクッとしたので、

 伊吹はつい声を荒らげてしまったことに気付いた。


 冷静さを取り繕うにも、胸の奥にある心臓とは別のところがモヤモヤしている。


 伊吹はアイを身体から離し、

 ゆっくりと立ち上がると柚美の竹刀を手で押しのけて顔を近づける。


「今大事なのはアイさんのことよ。そういう話はまた今度にして」


 伊吹が睨み付けると柚美は「うっ……」と呻き、半歩下がる。

 たとえ剣道をやめて身体能力が衰えようとも、

 伊吹のまなざしは柚美を怯ませるだけの力を持っていた。


 だが、柚美はちらちらと視線を逸らしつつも、しぶとく食い下がる。

 

「ようやくなんだよ。

 理由はどうあれ一年かけて、やっと伊吹ちゃんが道場に来たんだよ。

 そう簡単には……」


「私が本気で怒ったらどうなるか、貴方、よく知っているでしょ」


 伊吹はアイを怖がらせないように優しい声音で笑顔を作る。

 それが却って、柚美には効き目があったらしい。

 柚美は脂汗をかき、視線が泳ぎだす。


「うっ、うぐうぅ……。

 し、知ってるよ。前髪で隠しているけど、あの時の傷、未だ残ってるし……」


「え?」


 予想外の返事に驚いた伊吹は怒ったフリを忘れて「嘘っ」と素の反応をさらけ出してしまった。


「何処よ」


 伊吹は柚美の短い髪をかきわけて額を探すが、目立つような傷は無い。


 伊吹が目をこらして生え際のあたりをじっくり探していると、

 柚美が瞼を閉じて唇を「んっ」と突き出す。


「あぶなっ」


 伊吹は仰け反りながら柚美の額を押して、唇が触れあう寸前で回避した。


「ちょっと、ねえ!

 それが原因で喧嘩になったってこと、貴方、分かっているの?」


 伊吹は柚美を最も親しい友人だと思っているが、

 柚美は友情以上の感情を抱いているらしく、以前、ふたりは衝突した。

 その際に、ものの弾みで伊吹は柚美の額に、怪我を追わせてしまい、

 今でも「やりすぎた」と引け目に感じている。


「えー? えへへ」


「えへへって何よ」


 伊吹が軽い脱力感に苛まれていると、アイが足に抱きついてきた。

 アイは「うー」と唸りつつ、額を太股にこすりつけてくる。


 自分がほったらかしになっているようで寂しかったのかも知れない。


 伊吹はアイの頭を撫でつつ、

 柚美へちょっとした仕返しでも出来ないかと目論む。


 なかなか良いアイデアが思い浮かばないでいると不意に、

 道場内が薄墨色に染まる。


 そして、ドッと、

 屋根から無数の矢が突き刺さるかのような音がけたたましく降ってきた。


 伊吹は反射的に視線を窓に走らす。


「雨? 晴れてたのに?」


「ゴリラ豪雨だっけ? ドドドドッて音が本当にゴリラみたい」


 けたたましい音の中で伊吹は、柚美の言葉を聞き取れない。


 雨がやんでから出かけるにしても傘は携帯した方がいいと思い、

 伊吹が傘立てに視線を向けると、

 玄関のドアが粉々に砕け散って何か巨大な物が飛び込んできた。


 あまりにも唐突なことに伊吹の理解が遅れる。


「……え?」


 ドアの木枠にはめてあったガラスが床に飛び散る音は豪雨が塗りつぶした。


 だが、それが着地するドスンという鈍い音と、

 床板が軋む音ははっきりと聞こえた。


 最初は庭に生えている木でも倒れてきたのかと思ったが、

 ソレは、床の上でのそりと動いた。


 伊吹は唐突な事態に理解が追いつかない。


 ソレは、

 伊吹を余裕で一飲みしてしまいそうなほど巨大な大蛇のように見える。


 一体どれだけの巨体かと、頭から尻尾の方へと視線を巡らせていくと、

 玄関の外に人影がある。


 薄墨色に沈んだ雨天の底にすら溶けきれない、深い闇色の人影であった。

 レインコートを着ているため人相は分からないが、

 背格好からして成人男性のように見える。


 直前まで晴天だったので、

 レインコートに身を包んだ人影は不自然なはずだったが、

 動転直下の伊吹は気にも留めなかった。


 伊吹は大蛇の背後に人を見つけたことにより、

 むしろ、玩具を使った悪戯かと思い、安堵のため息を吐きかけたほどだ。


 ワニやシャチの浮き輪があるのだから大蛇もあるのだろうと考え、

 玩具であることを確認しようと観察する。


 口の隙間から先割れの舌が出てくるのが一瞬見え、

 鱗に爬虫類特有の光沢がある。


 伊吹は玩具である証拠を掴めないまま、

 頭から胴体、尻尾へと視線を進めていく。


 大蛇は乱入者の右腕から生えていた。

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