4 伊吹は捨て身の覚悟で大蛇に挑む
雨のせいで深呼吸することができなければ、
伊吹は俯き、吐き捨てるようにして呼吸を整えるしかない。
抜け出たばかりの雑木林を見据える。
大蛇の姿はない。
余裕があればこそ、アイを気遣える。
「何処か怪我していない?」
「ウイ。チクチクしたけど、もう痛くないよ」
アイは毛糸のようにもこもことした靴下を履いているから多少、木の枝が刺さったとしても、怪我はしなかっただろう。
伊吹はほっとし腰を落としそうになるが、
一度でもお尻を下ろしたらもう立てなくなりそうだったので、
膝に手をついて我慢した。
濡れた衣服が泥のように重く、全身に纏わり付いてくる。
「なんなのよあれは。
確かに、お薬の説明書には、
人によっては幻覚を見る場合がありますなんていう一文もあるわ。
でも、そんなのは頭痛薬にだって書いてある程度のことでしょ。
それに、今日は飲んでないし……。
一体、なんなのよ。なんで、こんなことになるのよ……」
つい「ねえ、柚美さん」と、友人の姿を傍らに求め、息が詰まる。
胸がざわつき、目元に熱い物がたまるのを感じたが、
アイの手前なので下唇を噛んで堪える。
シャワーを浴びているような豪雨なので泣いたって分からないが、意地がある。
「今みたいなときに隣にいるのが、友達でしょ……」
高校に進級するとき、おそろいのボールペンを買った。
蛙の飾りがついていて、ボタンを押すと両手足がケロケロと動く愉快なやつだ。
遠足で同じ班になって、バスで隣の席に座ってカラオケでデュエットした。
修学旅行でも同じ班になった。
隣に布団を敷いて夜遅くまでおしゃべりをした。
朝起きたら、何故か柚美が同じ布団の中にいた。
寝相が悪いのにも程がある。
大事な思い出は薄暗い景色に溶け消えることなく、
鮮やかにまぶたの裏に浮かぶ。
「柚美さん無事かしら。
大蛇が貴方を追って私達が助かったのなら、恨むに恨めないわよ」
裏切られたことへの絶望はあっても、嫌いになったわけではなかった。
幻滅したけど、これで潰れるほど短い付き合いではない。
「後でどんな表情をして再会すれば良いのか分からないけど、
明日にはいつも通りの関係になっていてよね……」
伊吹は直ぐ隣にいる愛おしい幼女を見下ろす。
「私だって、貴方じゃなければ、見捨てて逃げたかもしれないわよね」
アイは鼻をひくひくさせていた。
「くちっ」
「ごめんなさい。何時までも雨に打たれていると風邪をひくわね」
手を取り、家へと足早に歩きだす。
緩やかなカーブの先に玄関があり、晴れていれば見える位置だ。
「もう少しだけ我慢してね。
すぐに温かいお風呂に……。ふふっ」
夢と同じことを口にしてしまい、つい、笑みがこぼれてしまった。
「やっぱり貴方、夢の赤ちゃんでしょ」
「アイ、赤ちゃんじゃないよ」
「赤ちゃんよ。……わた――」
突如、背後で大縄を引きずるような重い音がした。
伊吹は反射的に振り返ろうとする身体に逆らい、
アイの手を掴んで前へ走りだす。
「走って!」
霞んでいるとはいえ、家は見えている。
僅か20メートルだ。
雑木林の中で、鈍い音が並走する。
あと数歩というところで前方に長い影が飛びだした。
大蛇に遅れて、飛び散る枝葉とともにレインコートの男が現れ、
進路上に立ち塞がる。
「お前に危害を加えるつもりはない。アイーシャを渡せ」
「断ります。貴方の姿を見たら、家族が警察を呼ぶわ」
「俺が何故、雨を呼ぶのか教えてやろう。
悲鳴を隠し、血を流し尽くすためだ」
「貴方、会話が出来ないわ」
伊吹は会話の途中で予備動作なく、男へ向かって駆けだす。
戦うつもりなどない。
いくら剣道の全国大会で優勝したことがあるとはいえ、
伊吹は素手で成人男性に勝てるとは思っていない。
男の脇をすり抜け、家に駆け込むつもりだ。
家族を呼べばなんとかなる。
そう考えた。
桐原家は武芸一家だ。
大人ならなんとかしてくれる。
祖父が収集している日本刀だってある。
電話で警察を呼ぶのもいい。
家にたどり着きさえすれば、きっと状況は良くなる。
そう思っていたのに……。
「ママ! 待って!」
悲痛な声が背中に投げられた瞬間、
伊吹は玄関から視線を外し、男へと向かう足を強めた。
家に逃げ込もうとしていた?
自分だけ?
アイを置いて?
違う。
助けを呼びに行くつもりだった。
でも、アイを置き去りにしている。
家族を連れて戻ってくるまでに、男がアイをさらっていくかもしれないのに?
伊吹は自問自答する。
アイの目に今、自分はどう映っているのだろうか。
友達に置き去りにされたことを嘆いたばかりの自分が、
今、アイに同じ思いをさせようとしている。
「有り得ないわね!」
伊吹はいつかテレビ番組の衝撃映像で、
川に落ちた息子を救うために、ワニの口に自分の腕を差し込んだ父親を見た。
見ず知らずの子供を助けるために、
サメが群れなす海に飛び込んだ母親の姿を見た。
伊吹に恐怖はあるが、塗り返すだけの熱い思いが胸からこみ上げてきた。
出会ったときからアイに抱いている感情は、けして嘘ではない。
大事な家族のように愛おしいと思ったのだ。
伊吹の覚悟を見て取ったのか、
男が「貴様はいったい何者だ」と誰何したが、伊吹は聞いていなかった。
アイが背後から「ママ」と叫んだが、やはり、聞こえていない。
「ままよ!」
出たとこ勝負とばかりに言い放った言葉は、男に困惑の表情を浮かばせる。
アイーシャは「ママ!」一際大きく声に花を咲かせた。
男の右腕に連なる大蛇は鎌首をもたげ、攻撃態勢をとっている。
伊吹は大蛇の動きを見極めようと注視する。
(要の部分は剣道と同じ。
振りかぶった竹刀は振り下ろすしかない。
もう払ったり突いたりはできない!
予備動作が大きければ大きいほど、その後の攻撃は限られてくる。
眼前で力を溜めている大蛇は、突きの軌道しか取れないはず)
伊吹は、腹で薙ぎ払ってくる可能性はないと、断定する。
そして、つい意識を引き寄せられてしまう大蛇ではなく、
それを操る男へと観察の目を向ける。
力の解放を間近に控えた巨腕の奥で、男の肩が一瞬、前に出た。
(来る!)
伊吹は待ちかまえていたから反応できた。
攻撃の気配に反応した神経が、身体を横に跳ばせる。
ドンッという重い音ともに、大蛇の頭が伊吹の脇をかすめていく。
通過列車が去っていくかのように、風圧が髪を引っ張る。
「っし」
暴威が頬を掠めた直後、伊吹は思わず歓喜の声を漏らす。
男の身体は右腕を伸ばした姿勢で開いている。
伊吹は、燕返しでもあるまいし、
背後の大蛇が戻ってくることはないと判断。
地面を蹴るように跳び、男へつっこむ。
殴り合いをする気は毛頭ない。
全身でぶつかり、押し倒し、体重で押さえつけている間に、
アイに家族を呼びに行ってもらう算段だ。
伊吹は相手の次の行動を見極めるべく、その視線を追う。
男はあっけにとられた表情を浮かべている。
衝突の瞬間になり、ようやく男ははっとし、
伊吹を払いのけるためか、条件反射か、左腕を身体の前にもってきた。
男の姿勢を見た瞬間に、
伊吹の体は事前の思考を無視し、半ば勝手に動いていた。
「たあっ!」
伊吹は男の手首と肘を掴み、ねじり上げる。
胴体が横を向いた状態で、余った左腕など格好の獲物だった。
伊吹は剣道に比べるほどではないが、合気道の経験も多少はある。
体の反射にやや遅れ、伊吹の思考が追いつく。
(このまま押さえこむ!)
伊吹が靭帯を切るつもりで、全力で腕をねじり上げると、
目論見どおり、男が前屈みになる。
伊吹はふらついた男の左肩に、自らの上半身を乗せるようにして、
全体重をかける。
「ぐあっ!」
男は関節を極められたまま、顔から路地につっこんだ。
受け身は取らせなかった。
細い身体ではたかが知れているが、
伊吹は全体重を乗せ、さらに肩関節を逆方向へとねじ曲げ、
男が立ち上がるのを阻止する。
「ぐっ……!」
「ははっ。凄いじゃない。私!
さすが桐原家の娘!
アイさん――」
家族を呼んできてもらおうと振り向き、
伊吹は視界の片隅に不気味な影を捉えた。
送風機のような音を立て、大蛇が戻ってくる。
男は全身が不自由になっても、
大蛇にだけは関節の戒めなど通用しないらしい。
「誰か呼んできて!」
伊吹はアイに指示すると、男の腕を放して、飛び退いた。
直後に、大蛇が男の上でぐわんと旋回する。
伊吹がよろめくようなバックステップを繰り返し、
一部屋分の距離を離れる頃、男は口の端を拭いながら立ち上がる。
「正気か貴様。
陽の下で日常を送る者が、
逃げ出しもせず、俺に刃向かうだと?」
男にダメージはない様子だが、同然と目を見開いていた。
男は知らない。
桐原伊吹が恐怖を感じにくい体質であること。
かつて剣道で日本一になっており、平均的な女子高生よりも、
力のぶつかり合いに慣れており、好戦的であること。
そして。
この伊吹の性質が後に、取り返しのつかない事態を招くことと、
両者の間にある因縁を、生ある者はまだ誰も知らない。
トクン。
眠り姫のように人知れず、小さく、伊吹の心臓が鼓動した。
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