少年
肌寒い。冬を越してもう春は来てしまったというのに、いまだに羽毛布団が手放せなかった。
転校初日。数回しか着たことの無い制服のシャツに袖を通す。初めて通う、私立小学校。地元では有名な私立学校で、汐も名前だけは聞いたことがあった。
珍しい名前。女みたいな名前。認めてくれる人がいるかもしれないよとスクールカウンセラーに薦められ、編入試験を経て、進級と同時に転校することになったのだった。
「僕の名前...受け入れてくれる人なんていないよ」
「大丈夫よ」
母親の手をぎゅっと握る。母は汐に微笑み返した。
いじめというほどでもない、意地悪。だが汐に心無い言葉はグサグサと刺さった。望んでこの名前を付けてもらったわけではないのに。
紺色のブレザーとスラックス、赤いネクタイと白いシャツ。今まで着た事のないジャンルの服にいくらか怖気づいてしまっていた。普段は大手のファストファッションで服は済んでいたから。日常が非日常になったときに、大きくはない、だがしっかりとした恐怖が汐を襲う。
それは昔からだった。
学校に到着した汐が通されたのは、少し狭い部屋である。ドアから向かって正面にソファが鎮座しており、重厚感のある部屋だった。オレンジ色の蛍光灯がぼんやりと辺りを照らしている。部屋の隅には校章を編み込んだ旗が置かれていた。恐らく、体育大会で脚光を浴びる優勝旗だろう。白いリボンが何本も垂れ下がっていた。
「久しぶりだね。葉山汐くん」
ふと声がして、振り返ると初老の男性がソファに座っていた。一度会ったことがある。この学校の副校長というなんとも微妙な立場の椅子に座る、
「まあまあ座りなよ」
「...はあ、」
汐は向かい側のソファにゆっくりと腰を沈める。敬之は楽しそうに笑った。紅茶まで出して、優雅なことこの上ない。
汐の警戒心とは裏腹に、敬之はティーカップ片手にぺらぺらと喋りだした。
「いやあ、これまでも何人かこの学校に転校してきた子はいるんだけどさ。"名前"が理由で転校してきた子は初めてだよ。安心してね、ここは外国人の子もいるから。ところでさ、編入試験の答案見たんだけどあれ何?本当に勉強してないの?本気で勉強してなくて97点とか異常だよ異常。本気で勉強してる子でも70点強くらいになるように難しい問題に設定しているのに97点って何あれ?もう僕びびっちゃったよね」
ここまで息継ぎ1回である。どこぞのマダムかと疑いたくなるようなマシンガントークはゆうに10分続いた。
そろそろ飽きてきた、と汐が助けを求めようとしたところで一人語りは終了する。主に「お前の脳どうなってんだよ」が9割、「君面白いね」が1割だった。
さて、と敬之は手を叩く。
「時間的にもう教室の方へ移動していることだし、汐くんにも移動してもらおうかな」
この男、主語が足りない。「何が」「誰が」教室に移動しているのかさっぱり伝わらないまま、汐は自教室となる場所へ突入する運びとなった。
ここまで、挨拶等諸々の説明は一切なしである。そのことを敬之に問うなり、「そのうち慣れるでしょ」と返された。まさに適当を権化にした男だとここで初めて理解する。松本敬之を理解するのに少々時間がかかったという事だ。
半ば無理やり、背中を押されるようにして汐はペンキの塗りたくられた階段を上る。リノリウム張りの床と、コンクリにペンキを塗りたくった壁は見事にミスマッチだった。目に毒である。
一つ言うなら、この時点で汐の視力は頗る悪かった。本人は気付いていないが視力検査を行えばD判定を貰えるくらいの視力の悪さだった。その為に、あまり目に毒々しい色を入れることなく階段を上り切ることが出来た。
「...え、」
誰が想像しただろうか。
階段を上り切ればすぐそこが教室で、入り口のドアもなく教室には壁がないという事実を。
そして向けられた何十もの目、目、目。首を回して敬之を見るがにへらっとした笑みを浮かべた男がそこにいるだけである。副校長の威厳もない。
生まれて初めて汐は心の中で毒づいた。くそったれ。
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