第36話 「碁太平記白石噺」

 吟香は幕間に桟敷席の客用の入口までヘボン夫妻を迎えに行った。

 スーツ姿のヘボンと、長い裾が丸く広がったドレスを着たクララ夫人はひときわ目立ち、大勢の人に囲まれている。

 見物人を割って近づこうとする座主と頭取のために、康次郎が道を作っている。

「ヘボン先生、奥様ようこそおいでくださいました」 

 ふたりは挨拶を交わすと、二階の正面桟敷席まで案内してくれた。

 桟敷席の前の手すりには緋もうせんが掛けられ、団子提灯が吊ってある。

 席に座ると、ぎっしりと埋まっている平土間からヘボン夫妻に手を振っている客の姿が見えた。患者なのだろう。夫妻も笑顔で応えている。


 まもなく幕が開くと、吉原大黒屋奥二階にある宮城野の部屋が広がっている。

中央に紅色の打掛に金色の帯を巻いた豪華な衣装の宮城野が坐っていた。

そのとたん拍手と歓声の波が起こり、まるで小屋が揺れているようだ。

 そこへ新造ふたりが、大黒屋の主人に浅草で助けられたおのぶという娘を連れてきた。

 おのぶは奥州の白坂近在の生まれで、父も母も亡くした。姉が吉原で名高い女郎になっていると聞いたので、子どもの身で危ない思いをして訪ねて来たと、奥州なまりで話した。

 だが新造たちは

「まあ何を言うのじゃら、とんと訳がわからぬわいな」

 と大笑いしている。

 宮城野は新造たちをたしなめ、早く座敷に行くように促す。

 二人だけになるとおのぶをそばに呼んだ。

「白坂近在の逆井さかい村という所に与茂昨というお人があろうがの」

「あいさ、その与茂作というのは、めらしがだだあ」

「ええ、そんならそなたは、わしが妹」

 だがおのぶは宮城野が近寄るのを止め、姉の印を見せてほしいと言う。

 立ったり座ったりするためには、継ぎ足についている棒を動かしてひざの曲げ伸ばしをしなくてはならない。

 宮城野は左手をゆっくり動かしながら「待ちや、待ちや」とやさしく声をかけた。

 左手に客の視線を集め、右手で打掛をつかんでいるように棒を動かして立ち上がり、箪笥までゆっくりと三歩歩んだ。

 息を呑んで見守っていた客から大きな拍手が起こった。

 大向こうから「紀伊国屋!」と掛け声も飛んだ。

ヘボン夫妻もうれしそうに手を叩いている。かたわらの康次郎は笑顔でこぶしを握っている。

吟香は、短い間にずいぶんけいこを重ねたのだろうと、田之助の努力に感心した。

 宮城野は箪笥の袋棚を開け浅草寺の筒守りを出して示し、おのぶは首にかけている壺井八幡のお守りを見せた。

「それを持っていやるからは妹じゃ、よう顔見せて、たもいのう」

「ああ、姉さぁであったか」 

 姉妹であることがわかったふたりは、手を取り合い涙にくれている。

 田之助と基答の迫真の演技に、客席は静まり返った。

 おのぶは父が悪代官に斬られ死に、母も病で亡くなったことを告げる。

 ふたりは廓を抜け出して、父の仇討ちに行くことを決めた。

 だが話を立ち聞きした主人が「曽我物語」を引き合いに出して無謀だとたしなめ、宮城野に年季証文を渡し解放してくれる。

 ここで幕が下り、再び大きな拍手が沸き起こった。

 吟香たちも惜しみない拍手を送っている。

「今日の田之太夫はいつもと違うね」

 吟香が小声で言うと、康次郎もうなずいた。

 奥州なまりを聞いたときの柔らかな表情や、はるばる訪ねてきたおのぶをやさしくねぎらう場面など、宮城野の人柄がにじみ出るような温かみのある芝居をしていた。

 女形はどんなに優れていても一座の座頭にはなれない。

 これまでの田之助の芝居は抜きん出たうまさで客を泣かせるが、わっちこそが座頭だと気負った芝居が多かったような気がする。

田之助の心の中で何かが変わったのかもしれないと吟香は思った。

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