第35話 「御所五郎蔵」

 5月25日朝、小屋や芝居茶屋の並ぶ表通りは着飾った客たちが往来し、華やかな雰囲気に包まれていた。

 やぐらが組まれた小屋の屋根の下には、絵看板を中心にのれんや団子提灯が吊られている。

 ヘボン夫妻と康次郎は、田之助が傾城宮城野をつとめる「碁太平記白石噺」を見ることになっている。

 吟香は両花道と渡りぜりふに惹かれて「御所五郎蔵」も見ようと一足先に来ている。

 お歌が正面桟敷席を用意してくれたが、両花道をより近くで見たくて平土間を取った。

 この芝居は不義の罪で浅間家を追放され侠客となった御所五郎蔵と、共に都へ来て傾城となった腰元の皐月さつき、そして皐月に横恋慕をし追いかけてきた星影土右衛門をめぐる物語である。

 やがてが入り、幕が開いた。

 序幕は「五条坂仲之町かぶと屋の場」である。

 本釣り鐘と三味線の音が流れる中を、星影土右衛門が門弟を従え花道に出てくる。

 と同時に御所五郎蔵も、子分を引き連れ仮花道に姿を現した。

 見物客は大喜びでやんやの喝采を送り、大向こうからは「紀伊国屋!」「大和屋!」と掛け声が飛んだ。

 吟香は、一行が両花道に向き合って並ぶ壮観な姿を夢中で見上げている。 

 お目当ての渡りぜりふを待って、客たちは静まり返った。

 三津五郎扮する土右衛門が口を開く。

「筑波なれえ(ならい)を吹きけえす、風肌寒き富士南、上野の鐘のも曇る、雨の箕輪みのわの里越えて、田のに落つるかりの声」

 すかさず訥升演ずる五郎蔵がつなぐ。

「空もおぼろに薄墨の、にかくさま待乳山まつちやま、花をしとうか夕汐に、上手うわてへ登る白魚や、二挺櫓にちょうろ立てし障子船」と交互に続いていく。

 朗々と流れる河竹黙阿弥の七語調の渡りぜりふが小屋に響き渡った。

吟香の脳裏に箕輪や浅草の風景が浮かび、なつかしさがこみ上げてきた。

 小気味よいせりふに合わせ小さく首を動かしている客や、目を閉じてじっと聞き入っている客もいる。

 せりふを覚えられる「鸚鵡石おうむせき」という声色本が売り出されるほど、客は役者の名ぜりふを楽しんでいるのである。

 二幕目は、旧主の遊興の尻拭いのために五郎蔵と皐月の運命が暗転していく物語だったので吟香は切なかった。

 だが心地よい渡りぜりふを堪能し、訥升や三津五郎はじめ顔見知りの役者たちの熱演を間近で見られたことが楽しかった。

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