第34話 田之助のつぶやき

 再び田之助の楽屋を訪ねると、

「銀公、遅かったじゃないか」

 甲高い咎めるような声が奥から聞こえた。

 すまなかったね、と言いながら中へ入って行くと、田之助とお歌の二人きりだった。田之助は少しほおがこけていたが、目をぎらぎらさせて吟香を見上げている。

「継ぎ足はヘボン館の玄関に置いてあったんだろう。見つけられなくて大恥かくところを盗っ人に救われたな。あんたは運がいいよ」

 憎まれ口をききながらも機嫌はよさそうだ。

「あちらこちら探してくださったそうで、ありがとうございました」

 田之助に代わってお歌が礼を言った。

「初日に間に合ってよかった。太夫にも十分運があるぞ」

 吟香が道具箱から継ぎ足を取り出すと、両手を精一杯伸ばした田之助は、体の均衡を失い畳に転んでしまった。

 両手で体を支えようとするが、うまく起き上がれない。手を貸そうとしたお歌の腕を振り払い、ちくしょうとつぶやきながらもがいている。

 やがて起き上がるのをあきらめて、畳の上で大の字になった。

「わっちは怖かったんだ」

 天井を見上げたままつぶやく。

 えっというお歌のかすかな声が聞こえた。人前でけして弱音を吐かない田之助の思いがけない言葉に、吟香も耳を疑った。

「世間のやつらが言っているように、土座衛門になったおみつや、足蹴にした和尚のたたりで足が腐っていくのかと思うと、こわくて眠れない日もあった」

 一気にそう言うなり口を真一文字に結び、また起き上がろうと体を動かしている。

 その様子をふたりはかたずを呑んで見つめている。

 かかとにけがをした田之助の右足は緑がかった黒色に変わり、異臭を放ちだんだん腐ってきたと聞いたことがある。

 得体の知れないものがそろそろと足を這い上がってくるようで、どんなに恐ろしかったか。それが己の所業の因果応報と思えば、さらに恐ろしさも増しただろう。それでも病に負けず懸命に舞台をつとめてきた心中を察すると、吟香は胸が詰まって何も言えなかった。

 ようやく起き上がった田之助は、またそっぽを向いて続ける。

「継ぎ足が盗まれちまったのも、誰かの呪いだと思ってあきらめていたんだ。今さら盗っ人捜しなんか、わっちはどうでもいいや」

 田之助なりの言いようで盗っ人を許すと言っているのだ、と吟香は受け止めた。

「太夫ありがとう。明日はヘボン先生たちと一緒に芝居を見せてもらうよ。皆楽しみにしているからね」

 吟香の明るい声に誘われるように田之助の表情が柔らいだ。

「おお、期待していろよ。天下一の女形の芝居を見せてやらぁ」

 芝居がかった声で言い、不敵な笑みを浮かべた。


 楽屋を出た吟香を追いかけて来たお歌が、継ぎ足を見つけた礼を言った。

探索の末見つけたことは知っているようだ。

 お歌はさらに歩み寄り、今度は言いにくそうに小声で聞く。

「三すじが三津五郎さんのことを何か言っておりませんでしたか」

 吟香はあいまいな表情を浮かべた。

「めったなことを言うもんじゃないと叱ったのですが、やはり話したのですね。吟香さんに失礼なことも口にしたのではないですか。本当に申し訳ございません」

 お歌は深く頭を下げた。

「あの人の芸名は市川三すじといい、訳あって成田屋さんのところからうちへ来た弟子なんです。田之助のために一生懸命働いてくれます。三津五郎さんを疑ったのもそういう気持ちからでしょう。けして悪気はありませんので、どうか許してやってくださいませ」

 子をかばう母親のように詫びるお歌を吟香は見つめた。

 いつも控えめにふるまっているが、紀伊国屋一門の一人一人に心を砕いているのだろう。

「兄が一門を率い、姉が陰で支え、弟子たちが神輿をかつぐ。太夫は幸せ者だね」

 吟香のつぶやきに柔らかな笑みを浮かべているお歌の白い手を取り、芝居の成功を祈っていますよと万感を込めて握った。

 下田座を出るとあたりはすっかり暗くなっている。

吟香は一件落着した喜びに浸りながら、ヘボンに教えてもらった「ヤンキードゥードゥル」の鼻歌を口ずさみ、悠々と家へ帰って行った。

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