第33話 名奉行
吟香が下田座に戻り舞台へ上がると、棟梁はじめ大工たちが大道具の最後の手直しをしていた。
桟敷や平土間では、裏方たちが総がかりで掃除をしている。
声をかけずに立っていると、気づいた若い大工が、吟香さんだと声を上げた。
「皆さん、この通り無事に継ぎ足が戻ってきたから、安心してくれ」
見物席に響き渡るような声を上げ、道具箱から継ぎ足を取り出すと、
「よかった、継ぎ足が戻ってきた」
「すごいな。吟香さんが見つけてくれたんだ」
口々に叫んでまわりに集まってきた。
駆けつけた頭取が、ほっとした顔でたずねる。
「探してくださってありがとうございました。いったい、どこにあったのですか」
「いや、わしが見つけたんじゃない。ヘボン館の玄関前に置いてあった。どうやら盗っ人が返しに来たようだ」
なあんだ、という声や笑い声が広がった。
「大工の手伝いに来ていた男の仕業だったのですか」
「盗っ人はもうどこかへ逃げてしまったから、確かめようもないんだ」
頭取が聞いたので、吟香は困ったような顔をして答えた。
「とにかく継ぎ足が無事に戻ってきてよかった。早く田之助さんに届けてやれよ」
棟梁がとりなすように言い、吟香の背中を押した。
廊下に出ると、また棟梁が近づいてきて小声で聞く。
「本当は、宗吉が隠したのを見つけたんだろ。わかってるよ」
このことは内密にしてほしいと頼むと、棟梁はけげんな顔をした。
「あちこち駆けずり回って見つけたのに、これじゃあ骨折り損のくたびれ儲けだろ。それなのに宗吉をかばうのは人が良すぎるんじゃないか」
いいや、と吟香は首を横に振る。
「話を聞いてみると宗吉は憎めない男だよ。もうこの町にはいないし、継ぎ足が戻ってめでたく初日が開けばいいじゃないか」
「そりゃわかるが、やっぱりお咎めがないってことは納得できねえ。宗吉のせいで俺は小屋中頭を下げて歩いて、面目丸つぶれだ」
話しているうちにだんだん怒りがこみ上げてきたのか、棟梁の顔が赤く染まった。
「そんなに怒ると体に悪いよ。誰も棟梁を責めてなんかいないだろ」
棟梁の心の中では、宗吉を懲らしめてやりたい気持ちと、吟香のようにけりをつけられない己に対するいらだちとが、せめぎ合っているのかもしれない。
「よし、おれが宗吉にお裁きを下してやる。ちょっと来てくれ」
棟梁がこぶしで掌をポンと打ち、きっぱりと言った。
吟香を促し外に出ると、人気がないのを確かめて楽屋番から死角になる所に立った。そして一間ほど先の地べたを見据え、コホンと咳払いをする。
「軽業師宗吉であるな。そのほうを歌舞伎役者澤村田之助の継ぎ足を盗んだかどで、横浜四方八里の所払いとする。二度と横浜の地を踏むことは、まかりならぬ」
町奉行を気取った声色で、目の前の白州のむしろに宗吉がかしこまっているかのようにお裁きを言い渡した。
所払いとは今住んでいる所を追い払われる刑だから、本来は江戸から追放されるべきである。おそらく横浜には戻って来ない宗吉をつかまえて、横浜四方八里の所払いと裁いたのは、いかにも人のいい棟梁らしいと吟香は思った。
町奉行のお裁きをいっぺんやってみたかったんだよ、と言いたげな無邪気な笑顔で、棟梁は吟香のほうを見た。
「じゃあ宗吉にこのお裁きを伝えてくれよ。これで田之助さんが、四の五の言わず継ぎ足を受け取ってくれれば丸く収まるな。あとはよろしく頼むぜ」
上機嫌で小屋へ戻って行く棟梁の後ろ姿を見ているうちに、吟香もこのお裁きですっきりと幕引きができたような気分になった。
「いよっ、名奉行!」
うれしくなって棟梁に向かい掛け声を飛ばした。
「さあ、次はわしの番だ」
円満に事を収めようと、吟香も歩き出す。
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