第32話 薬種問屋の夢

「あの叔父は、宗吉の負い目につけこんでひどいことをしましたね」

 店を出ると、康次郎が厳しい表情で言った。

「大きな夢を追っているうちに暴走してしまったんだろう。康次郎さんの夢はなんだい。どうしてヘボン塾に入ったのかい」

 吟香がたずねると、康次郎はうれしそうに話し始めた。

「父が居留地に西洋薬を仕入れに行くとき、ついて行ったことがありました。レンガ造りの西洋館や幅の広い道はまるで異国に来たみたいで、わたしはすっかり夢中になってしまいました。父にヘボン塾で英語と医術を学びたいと頼み、横浜へ来たのです。腑分けの一件で医術のほうは断念しましたが、薬種と英語をしっかり学んで、西洋薬を商う薬種問屋の主になりたいのです」

「康次郎さんならきっと夢をかなえられるよ。だがその前に短気を直さなくてはいけないな。かっとなって足の手術をした人を押し倒すなど、とんでもない。短気は身を滅ぼすぞ」

 康次郎を見据えて釘を刺すと、

「すみませんでした。すぐ頭に血が上るのは何とかならないでしょうか」

 すがるような目で吟香を見上げた。

「息を吐いたり、頭の中で数を数えて間を置いてから、相手の言動にこたえたらどうだい」

「むずかしそうですね。わたしにできるでしょうか」

「すぐには無理だろうが大丈夫だよ。わしはこのこつを覚えてから、悪意に満ちた言葉や挑発も聞き流せるようになった」

 なるほど、と康次郎は吟香の顔をじっと見た。

「先生が探索を手伝うように言われたのは、わたしが芝居好きだからだと思っていました。でも本当は吟香さんから多くのことを学ぶようにわたしを導かれたのですね」

「そうかもしれない。わしは落ちぶれた己を卑下していたが、辞書の編集を手伝ったことで自信を持ち、昔のどんな暮らしも恥ではないと胸を張れるようになった。これも先生に導かれたのだ。神様のような先生だね」

 ふたりは顔を見合わせてにっこり笑った。

「さて、宗吉たちのことに触れずに、どうやって継ぎ足を返すかだな」

「居留地のヘボン館はよく知られていますから、そこの玄関前に置いてあったというのはどうですか」

 それは名案だね、と吟香は手を打った。

「盗っ人の正体をあいまいにできる。ただわしたちが見つけたことはなかったことになるよ。わしは平気だが、塾生の康次郎さんとしては大丈夫かい」

「誰かに認めてもらおうと思ってやったわけではないので構いません。ヘボン先生に少しでも恩返しができたのは何よりもうれしいです」

「わしもそれが一番うれしいよ」

 吟香はふたりの心が初めて一つになったような気がした。

「ではすぐにヘボン館へ帰って、先生と緒形さんに事の顛末を話してくれ。わしは太夫に継ぎ足を返してから行くよ」

 大通りで二手に別れ、吟香は康次郎の弾むような足取りを笑顔で見送った。

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