第22話 高橋是清受難

 翌朝、吟香が土間で朝飯の支度をしていると勝手口の扉を激しく叩く音がした。

 戸を開けると、苦しそうにハアハアと肩で息をしながら立っていたのは康次郎である。いつもきれいに櫛目が通っている散切り頭は、汗でくしゃくしゃになっている。どうやらヘボン館から駆けてきたようだ。

 もしかしてと思い、継ぎ足が見つかったのかと大きな声で聞いたが、康次郎は首を横に振るなりひざに手を当てうずくまってしまった。

「とにかく上がりなさい」

 促されて座敷に上がり湯呑の水を飲み干すと、ようやく口を開いた。

「ウェン・リードさんはどこにいるのですか」

 リードさん、と驚いて聞くと黙ってうなずく。

「ハワイ移民のことで新政府に呼ばれていると言っていたが、もう帰ってきたはずだ。家にもいないのかね」

「さては逃げたな」

康次郎はいきり立ち早口でまくしたてる。

「きのうヘボン館に戻ったら大騒ぎでした。アメリカに留学した是清が同行したリードに掛かりの金を取られたうえ、あいつの二親にだまされて農園に売り飛ばされていたことがわかりました。やっと解放されて近いうちに帰国するそうです。『何食わぬ顔で横浜に戻ってきたリードをとっちめてやる』と言って、捜し回っている塾生もいます」

 ウェン・リードは、ヘボンと同じペンシルベニア州出身のアメリカ人である。貿易商のかたわら、日本人のアメリカ見学や留学の斡旋を請け負っている。また駐日ハワイ国総領事の肩書で、移民も斡旋していた。

「えっ、その話は本当かい」

「一緒に留学した鈴木六之助からヘボン先生に手紙が来たので、間違いありません」

 高橋是清は2年間ヘボン塾で英語を学び、去年仙台藩の留学生として14歳でアメリカに渡っていた。

 是清の酒樽のような体と、誰からも好かれる明るく伸びやかな気性を思い浮かべ、吟香は目をしばたいた。

 ヘボン館に出入りしていた同胞の卑劣な行為を聞いた先生は、どんなにか心を痛めているだろう。

 是清を「コレコレ」と呼び息子のように可愛がっていたクララ先生は、深い悲しみに沈んでいるに違いない。

 己にとっても、リードは浅からぬ因縁のある男である。吟香は思わずこぶしを握り締めた。

「あんたは是清と親しいのかね」

「いえ、特に親しいわけではありませんが。吟香さんは猫の目玉騒動を知っていますか」

 いいや、と吟香は首を振った。

「塾生たちが猫の目玉の腑分ふわけ(解剖)を見学したとき、卒倒したのがふたりいました。それが是清とわたしです」

 康次郎は自嘲の笑みを浮かべながら、己を指差す。

「情けないやつだと、塾生たちにさんざん馬鹿にされました。わたしは商人の息子です。是清は幕府の御用絵師の子で、仙台藩の足軽の養子になった男です。出自しゅつじゆえにいっそうあざけりを受けたのだと、わたしはとても傷つきました。ところが是清は何事もなかったような平気な顔をしているのです。肝が据わった男だと感心して、それから是清のことを気にかけていました。あの年でアメリカに留学するとは大したものだと思う反面、大丈夫かと心配もしていたのです」 

 今まで見たこともない真剣な表情で、康次郎は一気に話し終えた。

「そうだったのか。是清が無事に帰って来るのを待とう」

 体裁の悪いことなどしないと言っていたのに、是清のため必死に駆けてきたのだろう。その気持ちがうれしくて、吟香は笑顔で丸っこい肩を叩いた。

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