第15話 「あば三津」の名付け親
小屋を出ると空は少し明るくなっていた。まだ下田座の興行が始まっていないので、芝居茶屋や土産物屋はひっそりとしている。
吟香が静かな表通りを西へ向かって歩き始めると、三すじが待ち伏せしていたように物陰からすっと顔を出した。
「三すじさん、どうしたんだい」
立ち止まり声をかけると、道に出てきて小声で話し始めた。
「盗っ人を手引きした者が小屋の中にいるらしいと噂になっています。ここだけの話ですが、三津五郎さんは宗吉とぐるかもしれません」
なぜそう思うのかい、と吟香は静かにたずねた。
「廊下でばったり会ったなんて言っているけれど、誰ひとり見た人はいないんですよ。盗んだ継ぎ足を宗吉がどこかに隠して、三津五郎さんはそ知らぬ顔であたしを船着き場へ連れて行ったんです。そしてふたりでお芝居を打ったんじゃないですか。頭の切れる人ですから、そんなことを考えるのはお茶の子さいさいですよ」
三すじは一気に言い終え唇を噛みしめている。
「三津五郎さんはそんな腹黒い男だろうか。居残りけいこまでして役作りをしていたし、親身になって継ぎ足を探しているように、わしには見えたよ。どうして興行の目玉の継ぎ足を盗むんだい」
「そこがあの人の油断できないところなんです。三津五郎さんのことを『あば三津』と呼び始めたのは太夫です。顔を見るたびにそう呼ぶので、すっかり広まってしまいました。太夫を恨んでこの興行を台無しにしようとしているに違いありません」
太夫と呼ばれる田之助が身も蓋もないあだ名をつけたことに、吟香は驚いた。
三すじは田之助が三津五郎を傷つけたことは認めながらも、その仕返しだと頭から決めつけ、憎しみを募らせている。
もう道理を説くしかないと吟香は思った。
「仮に三津五郎さんと宗吉が仲間で、あらかじめ手はずを決めていたとしよう。だが今日初めて下田座に来た三津五郎さんに宗吉の手引きができるだろうか。一座の人たちも同じだ。むしろ宗吉のほうがくわしいかもしれないよ」
「では、吟香さんはひとり先乗りしたあたしを疑っているんですか」
三すじが細い眉を吊り上げて詰め寄る。
いや、とんでもないと吟香は手を振った。
「わしは皆を信じているよ。三すじさん、証しもないのに仲間を疑うのはどうかな」
「そんな手ぬるいことを言っていたら、継ぎ足はけして見つかりませんよ」
三すじはほおを紅潮させ挑むように言い放った。
吟香が驚いて、シワが目立つが鼻筋の通ったきれいな顔をまじまじと見ると、はっとしたように口元を押さえた。
「申し訳ございません。言葉が過ぎました」
しなを作って頭を下げ、また物陰に隠れてしまった。
今下田座の人たちは疑心暗鬼になり、互いに仲間を疑っているのかもしれない。一刻も早く継ぎ足を見つけなければ、興行のために力を合わせてやってきたことが水の泡になってしまうと、吟香は焦りを感じた。
宗吉が継ぎ足をどこかに隠したまま姿を消したとは考えにくい。誰かに手渡したとなると、早く身辺を洗わなくてはならない。
有明座に向かう足取りは自然と早くなった。
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