第14話 紀伊国屋の兄弟

 舞台を降りた吟香は、田之助の兄二代目澤村訥升とっしょうを訪ねた。座頭である訥升の楽屋は二階の一番奥にある。

数年ぶりに会ったが、色白のふっくらした顔に人のよさそうな笑みを浮かべているのは変わらない。物腰に一門を率いる貫禄がついてきたように見える。

「ヘボン先生が用意してくださった継ぎ足が盗まれちまうとは。本当に申し訳ございません」

 目の前にヘボンがいるかのように深く頭を下げた。

 紀伊国きのくに屋さんのせいではないよ、と吟香はなぐさめるように言い、すぐ本題に入った。

「一座の人たちは、皆今日横浜に着いたのかい」

「はい。三すじだけは宿屋の女将や小屋の頭取と打ち合わせをするために、ひとり先乗りしました」

「ほう、三すじさんはあちこち駆け回っているんだね」

 吟香はすっかり感心している。 

「とても気が利く弟子で助かっています。男衆の釻次郎は体が大きくて、ゆうゆうと田之助をおぶってくれます。あいつはまわりの者に恵まれていますよ」

「それは心強いね。ところでこれは聞きにくいことだが、継ぎ足を隠して太夫を困らせてやろうという者が一座にいると思うかい」

「わたしが見込んで一座を組んだ面々にそんな者はおりませんと言いたいところですが、自信はありません。ご存じのように田之助はあんな性分ですから、皆に好かれているとは思えません」

 訥升はため息まじりに言い、口をつぐんでしまった。

兄は穏やかな性格だが、七つ年下の弟は気性が激しく無類の負けず嫌いである。天賦てんぷの才能と人気を頼み、己より芝居の下手な相手とみると舞台でも容赦なく「大根」とののしり、平気で恥をかかせていた。

世間では稀代の名女形ともてはやされていたが、「田之高慢」と眉をひそめる者も多かった。

田之助は舞台を降りてもわがまま一杯にふるまった。

脱疽をわずらったとき、捨てられて不忍池に入水した芸者のたたりだとか、田之助に入れ揚げて上野明王院みょうおういんの寺宝を勝手に売却し追放された高僧がすがってきたとき、足蹴にした罰が当たったなどと、まことしやかな噂も吟香の耳に入ってきた。

やがて訥升は吟香をまっすぐ見つめ口を開いた。

「それでも黒衣の助けを借りて、片足だけで懸命に芝居をする田之助の姿に胸迫る思いがしました。わたしだけではありません。皆心を打たれ、涙を浮かべている者もいました。継ぎ足のおかげで田之助はひとりで座って芝居ができるようになりました。一座の者は皆、この興行の成功を願っていると信じたいのです。ありがたいことに、裏方も精一杯やってくれています」

田之助に腹の立つことも多かっただろうが、兄としてまた一門の親方として手術後ずっと面倒を見てきた訥升の言葉に、うそはないような気がした。

「そうかい。わしもそう願うよ。ところで太夫は『白石噺』で傾城の宮城野をつとめるそうだね」

芝居に話を向けると途端に笑顔になった。

「ええ、そうです。宮城野の部屋で妹のおのぶ、これは澤村基答きとうがつとめるんですが、ふたりの対面の場でヘボン先生へのお礼の口上を述べることになっています」

『碁太平記白石噺』は、東北・白石の娘が江戸に出て、傾城になった姉と力を合わせて悪代官に殺された父の仇打ちに出る芝居である。

 この興行では、幼いころ生き別れた姉妹が再会を果たす七段目の「揚屋あげや」だけが上演される。吟香は吉原の華やかな舞台を思い浮かべ口元をほころばせた。 

 訥升の楽屋を出ると念のためヘボン館で聞いた話を確かめることにした。

 坂東亀蔵と尾上多賀之丞のほか、大部屋の役者や男衆たちに宗吉のことを聞いて回ったが、皆知らないと言う。居残ってけいこをしていた三津五郎だけがはっきりと宗吉を見たようだ。

裏方や大工たちは宗吉とは顔見知りだが、今日もどこかで見たなあと頼りない答えが返ってくるだけだった。三すじの話はまちがいないようだ。

新たな手がかりもないので、吟香は有明座へ行ってみることにした。

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