第8話 田之助と銀公

「どこへ行ったんだよぉ、継ぎ足は」

 釻菊かんぎくの家紋を染め抜いたのれん越しに、田之助の駄々っ子のような声が聞こえてくる。芝居で聞くたおやかな姫君や傾城の声とはまったく別人のようだ。

 皆さんが捜してくださっているからね、となだめるおなごの声も聞こえてきた。

 中へ入って行くと二畳ほどの板の間の奥に六畳間があり、鏡台と衣桁のほかに小さな座卓が置かれている。

田之助は楽屋着の浴衣のまま、しどけない恰好で壁によりかかっていた。裾から一本だけ出ている足には光沢のある布が掛けられている。

色白で目鼻立ちの整ったやさしそうな顔や、なで肩の華奢な体は楚々として、男でも見とれてしまうほど美しい。

舞台で足を怪我した田之助が二、三日紅絹を巻いていると、江戸の娘たちが競って足に赤い布を巻くほど夢中になるのも無理はないと吟香は思った。

 姉のお歌がそばに座り、うちわの風を送っている。独り身の田之助の手術にも付き添った姉が、特別に楽屋にも控えているようだ。

 田之助はなまめかしく吟香のほうへ体を向け、

「よう、銀公。早くわっちの足を見つけておくれよ」

と甘えるように言う。

いきなり呼び捨てにした田之助に、康次郎は無礼だと気色ばんだ。

頭取やお歌に、板の間でかしこまっている三すじまであわてている。

だが田之助は紅を引いた薄い唇をひん曲げて平然と笑った。

「呼び捨てなんかじゃねえよ。銀次てえ名に、エテ公の公をつけた呼び名さ」

「いや、構わないよ。わしは昔、皆に銀公と呼ばれていたのだ」

さらに目をむいている康次郎をなだめたが、気まずい沈黙が続いている。

「さあ、どうぞ。お座りください」

頃合いを見計らったようなお歌の穏やかな声を聞き、ふたりは勧められた座布団に腰を下ろした。

 じっとりと汗ばむ蒸し暑さや、肝心な継ぎ足が盗まれた不安で皆暗い顔をしている。吟香は一同を見回し、くだけた調子で話し始めた。

「わしは美作みまさか(岡山)の百姓の出だが、江戸に出て学問を納め水戸藩邸と秋田藩邸で漢学を教えていた。それから三河挙母ころも藩に取りたてられたが、宮仕えがいやでな、ひと月余りで脱藩した。持病の脚気が悪化し国許くにもとへ帰ったが、病がえるとまた江戸へ戻り昌平黌しょうへいこうで学んだ。ところが漢学の師匠が安政の大獄で捕えられ、わしもお上に追われる身となった。危ないところを上州へ逃げ延びたものの、江戸の暮らしが忘れられず舞い戻ってきたのだ」

波瀾万丈の人生を語る吟香を、皆驚いたような顔で見つめている。

 吟香が身の上話をすんなりと口にできるのは、江戸と横浜を往来する商人たちから江戸城開城や将軍の蟄居ちっきょ、彰義隊の話などを聞き、幕府が瓦解がかいしたことを確信しているからだ。

「とはいえ、この図体だろう。どこにいようとわしは目立つ」

 突き出た腹をポンと叩く。

「木を隠すは森の中にしかずと言うが、わしも市中でふつうに暮らせばいいのだと気がついた。そこで芸者の箱屋に、湯屋の三助、左官見習い、何でもやって深川や浅草あたりに住んでいた。その頃皆に銀公と呼ばれていたのさ」

「えっ、吟香さんが三味線箱を持って、芸者の伴をしておられたのですか」

 康次郎はそう言いつつ笑いをかみ殺していたが、とうとうぷっと噴き出してしまった。頭取たちも、いつの間にか表情をやわらげている。

「そうさ。わしは芸者の帯を結ぶのもうまいぞ。大夫と知り合ったのも芝居小屋だった。わが人生、変われば変わるものだとおかしくてな。洒落で雅号を吟香としたわけだ」 

浮き沈みの激しかった来し方を思い出し、吟香は笑みを浮かべた。

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