第6話 「豚屋火事」
ヘボン館の門を出てすぐに、三すじが改まった顔で吟香を見上げる。
「あたしは先に帰ってもよろしいでしょうか」
かまわないよと言うと、うれしそうにうなずいた。
さっと着物の裾をからげ脱いだ草履を手にするや、
その
ふふん、と康次郎が小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「女形が男むき出しで走って行きましたね」
「そんなふうに言うものではないよ。わしたちのことを一刻も早く太夫に伝えたくて、飛んで帰ったのだろう。康次郎さんは誰かのために駆けたことはないのかい」
「わたしはそんな体裁の悪いことはしません」
すまして答える康次郎を見ながら、わしだって継ぎ足を盗まれた先生の気持ちを思うと走らずにはいられなかったんだよ、と吟香は心の中でつぶやいた。
ふたりは、日本人町と居留地との境にある大通りに出た。
慶応2年11月26日、豚肉料理屋から出火した「豚屋火事」は居留地まで燃え広がり、日本人町の大部分と居留地の一部が焦土となってしまった。
火事が起きたとき上海に滞在していた吟香とヘボン夫妻は、アメリカから呼び寄せ留守を託していたひとり息子サミエルからの手紙で惨事を知った。
幸いヘボン館は無事だったが、多くの犠牲者や被害が出たことに三人はたいそう心を痛めた。
翌年4月に帰国すると横浜は大きく変わっていた。
次々と新しい建物が建ち、日本人町と居留地との間に
また多くの遊女が亡くなった
吟香は黒い瓦屋根が続く日本人町や、大きな西洋館が並ぶ居留地に時折目をやりながら、継ぎ足が盗まれたいきさつを康次郎に話した。
「大工の手伝いが怪しいですね。関内のどこかに継ぎ足を隠したのでしょう」
康次郎が自信ありげに言う。
「わしもその男が怪しいとは思うが、まだ決めつけるのは早いよ。盗っ人はどんな奴だろうね」
吟香はゆっくりとたずねた。
「脅しの文もきていないし、あつらえの継ぎ足が売れるとも思えませんから金目当てではないでしょう。太夫や一座、あるいは下田座に恨みのある者の仕業ではないですか」
「まずそう考えられるね。その男だが小屋に出入りしたのはこの10日くらいで、今日着いた太夫とは会っていないようだ。下田座や太夫とのつながりが見えてこない」
「ひょっとして誰かに頼まれて盗んだのかもしれません」
「それもあり得る。あるいはその男が江戸で太夫と何か因縁があって、横浜まで追いかけてきたというのもあるかもしれない」
いろいろ考えられますね、と康次郎は首をひねった。
「まずは下田座へ行って、楽屋の様子や男について調べてみよう。それから役者や裏方、大工の中に盗っ人か、もしくはその仲間がいるのか。小屋の中にまだ継ぎ足が隠されていないかも確かめなくてはいけない」
「はあ。むずかしい探索になりそうですね」
康次郎は想像以上に面倒な仕事を頼まれたと思ったらしく、小さなため息をついた。
馬車道通りに出たふたりは、無言で吉田橋を渡った。
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