第2話 名医ヘボン先生

 ジェームズ・カーティス・ヘボンは、横浜が開港した年にキリスト教の宣教のためクララ夫人と来日した宣教医である。

 専門は眼科であるが、以前シンガポールなどに派遣された経験から外科や内科の心得もあり、名医として江戸にまで広く名を知られている。

 6年前に居留地の東のはずれを流れる堀割川沿いに、住まいと施療所を建てた。ヘボン舘は、海岸通りの1本南の水町通りに面している。目の前の谷戸やと橋を渡れば、去年居留地に編入されたばかりの山手へと通じている。

 吟香は手ぬぐいで汗をぬぐい、荒い息を整え門をくぐった。

 ヘボン館は西洋館としては珍しい和洋折衷の造りである。最初に住んだ神奈川宿の成仏寺じょうぶつじの屋根を気に入ったヘボンが、黒い大屋根を模したという。

 となりの建物は施療所と祈祷所きとうしょを兼ねており、堀割川に面した奥の建物は夫人が開いたヘボン塾(英学塾)である。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、ヘボンが青ざめた顔をして出迎えた。

「こんにちは、吟香さん。来てくれてありがとう」

「先生、大変なことが起こりましたね」

 来日して9年になるヘボンは、ほとんど会話に困らないほど日本語が上手である。

 異人にしては小柄で、銀色の髪は薄くひたいが広くなっているが、背すじをまっすぐ伸ばした姿は53という歳より若く見える。

 以前この館に住み込みヘボンの手伝いをしていた吟香は、慣れた様子で玄関脇の十畳ほどの広さの客間に入った。

 中央に使い込まれた大きな円卓と長椅子が並べられ、壁際にはオルガンが置かれている。ヘボンがオルガンを弾きながら高音の美しい声で歌うアメリカの歌に、吟香は聞き惚れたものである。

 ヘボン館は角地に建てられ四方に広縁が張り出している。開け放たれた窓から入ってくる心地よい風に吹かれながら、なつかしい日々を思い出した。

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