Episode6:『砂漠の宝石』

 『砂漠の宝石』とは別にビアンカ達がチェックインした市内のホテル。パーティーに招待されるカップル客として不自然ないように、今回ビアンカはユリシーズと同じ部屋に泊まる事になっていた。イリヤ達は既に別の部屋に泊まっている。


「おい、そんなに緊張するなって。大丈夫だ。お前の意思を無視して何かしようなんて気はないからな」


 その日の夜、リビングのソファに腰掛けたユリシーズがやや苦笑するように声を掛ける。


「う、うるさいわね。解ってるわよ。これは、そう……条件反射みたいなものよ」


 別の一人用ソファに膝を抱え込むようにして座っているビアンカは、自分でも言い訳じみていると思いながら動揺を誤魔化すようにかぶりを振った。だが実際には彼の言う通り、緊張しているのは事実であった。


(でも……仕方ないでしょ!? いきなり彼と同じ部屋に泊まるだなんて……)


 同じ部屋と言っても、そこは豪華なカジノホテルのスイート。寝室は二つあるので実際には別々の部屋で寝る事が出来るのだが、要は心理的な問題だ。



「ふ……条件反射でそこまで警戒されちゃ傷つくな。明日の夜は大勢の前でキスするんだぞ? 本当に大丈夫か?」


「……!」


 傷つくと言いつつ少し揶揄するような口調でユリシーズに言われて、ビアンカは改めてその事実を意識した。それを望んでいたはずなのに、いざその時を前にすると緊張し、怖い・・という感情すら芽生える。


 思い出したくもないが元カレもいたし、自分もそこまで初心という訳でもないはずだ。これは長らく心の奥底で想ってきた相手といざ本当にそういう関係・・・・・・になる事への緊張感だ。


 それは頭では解っていたが、現実問題として彼の言う通り明日の本番・・に対する不安が残る。他の招待客だけならいざ知らず、主催者であるシヴァンシカの目は僅かな緊張でも違和感を抱くかも知れない。


 本番に備えて予行練習・・・・が必要だ。いざ本番の時に余計な事を考えずに、彼の事だけを見ていられるように。


 ビアンカはゴクッと嚥下した。先程ユリシーズは彼女の意思を無視して何かするつもりはないと言った。つまり……これ・・は彼女が望んだ上で、彼女の方から申し出なくてはならないという事だ。



「ええ、そうね……。確かに今のままじゃ明日は不安があるわね。だから……だから、その前に練習・・しておくべきよね。いざという時に緊張しない為に」



「……! 本気で言ってるのか?」


 当然ユリシーズにもその意味はすぐに伝わる。彼はその金色の目を大きく瞠った。


「勿論本気よ。こんな事冗談で言えるはずないじゃない。キスだけじゃなく……その先・・・・も」


「ビアンカ! 滅多な事を言うな! お前は状況に流されてその気になっているだけ――」


 ユリシーズが思わずと言った感じでソファから立ち上がる。だが同時にビアンカも勢いよく立ち上がった。


「流されてなんかいないわ! ずっと前からあなたの事を想っていたのよ!」


「……っ!」


「私……過去にヴィクターと交際してた事は当然知ってるでしょ? これも知ってるかもしれないけど、生娘じゃない・・・・のよ。でもアイツは私の親友のエイミーを殺して悪魔に魂を売った最低最悪のクズだったわ。そんなアイツに抱かれた・・・・記憶を私は未だに消し去る事が出来ないのよ! これがどんなにおぞましい苦痛か想像できる? あなた……あなたなら――」


「――ビアンカ、もういい! それ以上ヤツの事を思い出すな!」


 いつしか涙声になって声を震わせていたビアンカを、ユリシーズがその力強い腕で抱きしめた。それだけでビアンカは安心感に包まれて体の震えが止まる。



「済まなかった。無理強いはしないと言いつつ、お前の気持ちを慮っていなかった。そして……俺自身の気持ち・・・・・・・もな」



「ユリシーズ……?」


「ああ、そうだ。お前がヤツと交際してた事は勿論、ヤツとやる事やってたのも確かに知っている。当初はなんとも思っていなかったが、今は違う・・・・


「……!」


 ビアンカは僅かに息を呑んだ。見上げる彼の顔に浮かんでいた感情は……


「認めるよ。俺は今、あの野郎に嫉妬・・している。奴に抱かれた記憶や感触をお前の中から完全に消し去りたくて堪らない。そしてその為に最良の方法・・・・・を俺は提案できる。いや、提案したい」


「ユ、ユリシーズ……」


 それは正にビアンカが彼に頼もうとしていた事だった。彼は自分から申し出てくれたのだ。



「ビアンカ……キスだけじゃない。今夜、お前を抱きたい・・・・。お前はどうだ? 俺を、受け入れてくれるか?」



「ユリシーズ……ええ、ええ! 勿論よ! 私を、抱いて。忌まわしい感触を忘れさせて……!」


 彼女は自らの望みを口にしていた。次の瞬間、その唇にユリシーズの唇が重なる。それが彼との『ファーストキス』であったが、ビアンカは一切の抵抗なく受け入れていた。逆に貪るように自分から舌を絡ませていく。


 舌に彼の味を感じ、ビアンカは脳内が痺れるような感触を覚えた。もう彼の事以外何も考えられなかった。それはユリシーズもお互い様であったらしく、彼はビアンカの口を吸ったままの体勢で乱雑にスーツを脱ぎ捨てた。


 そして力強い腕でビアンカを抱きすくめたまま、二人一緒に大きなベッドに倒れ込むように身を投げた。情欲と本能だけに支配された二人は狂ったように、そして貪るように互いを求めあった……



*****



 翌日の夕方。『砂漠の宝石』に向かうタクシーの中で、ビアンカは未だに夢見心地が続いていた。


 あれ・・から寝たのは夜も白み始めた時刻であった。その影響で起きたのは正午近かったので、入浴したりブランチを摂ったり夕方からの任務の準備などでバタバタして、ゆっくり余韻に浸っている暇がなかった。


 そのせいで何となく昨夜からの浮ついた心が残ったまま任務を迎える事になってしまったのであった。だが今回の任務の性質上・・・それならそれで構わないとビアンカは思っていた。


 今ならたとえ世界中の人間に注目されていたとしても、緊張せずに彼の事だけを考えていられる。その自信があった。やはり昨夜決断して正解だったようだ。もう忌まわしい感触も素晴らしい体験で上書き・・・され、たとえ思い出したとしても彼女に動揺を与える事はなかった。


「ふ……いい顔になったな。今なら行けるな?」


「ええ、ユリシーズ。見たい人達にはむしろ見せつけてやりましょう」


 同乗しているユリシーズの問いにビアンカは笑みを浮かべて答える。そう本心から思えるようになっていた。



 やがてタクシーは『砂漠の宝石』の前に到着する。遠くからでもその威容が確認できる巨大豪華ホテルだ。荒稼ぎしているというのは本当らしい。ビアンカ達が車から降りると、すぐ後ろに追随していたタクシーからやはりイリヤとオリガの二人が降りてきた。 


「ここが今回の任務の場所なんダね……」


「す、凄く大きクて立派なホテルね」


 ロシアの片田舎出身である二人はお上りさん丸出しの様子で、口を開けて『砂漠の宝石』の威容を見上げていた。イリヤはいつもの英国貴族の子供のような服装であったが、オリガの方も子供服のブランド広告に出てきそうな可愛らしいドレス姿で非常に様になっていた。ホテル前にまばらに到着し始めていた他の招待客やスタッフなどから感嘆の声が漏れ聞こえる。


「イリヤ、オリガ! おはよう! 昨日はよく眠れた?」


 そんな彼等の『従姉妹』としてビアンカは若干鼻が高い思いで声をかける。因みに他のメンバーはまだ到着していないようだ。パーティの受付時間は長く取ってあるので、イリヤ達以外は敢えて時間をずらして入場するように予め決めてあった。


「お姉ちゃん……う、うん、まあ、よく眠れタ、と思う」


「そ、そうネ……。よく眠れたワ、確かに」


 二人共何故か少し顔を赤らめて恥ずかしげに俯いてしまう。どうやら彼等は彼等で昨晩何か・・あったようだ。といっても様子を見る限り別に喧嘩したなどの負の出来事という訳ではなさそうだが。



「おい、そろそろ行くぞ。いよいよ本番・・だ」


「……!」


 ユリシーズに促されてビアンカとイリア達は『砂漠の宝石』のロビーに入る。そこには既に大勢の招待客が入場の列に並んでいた。このホテルには中庭テラスがあり、ちょっとしたコンサートが出来るくらいの広さがあるらしい。誕生パーティーはそこで行われるようだ。


 中庭に続く通路の途中にはタキシード姿の強面の男達が並んでおり、そこで招待状のチェックが行われていた。ビアンカ達もイリヤ達も大統領府のバックアップによって完璧に偽造・・・・・された招待状を持っていたので、そこのチェック自体はすんなりと通過できた。だが問題はここからだ。


 中庭テラスへの出入り口と思われる大きな扉。そこでは既にカップルで来ている他の招待客達が熱烈なキス・・・・・を披露している所であった。そして扉の前にその様子をにこやかな笑顔で見守る一人の若い女性の姿。


 白人とも黒人ともラテン系とも、そしてリンファのような東洋人とも異なる、エキゾチックでオリエンタルな美貌。年齢的にはビアンカよりやや上程度に見える。高価で鮮やかな色合いの大きな一枚布を身体に巻いた、いわゆる『サリー』と呼ばれるインド・・・人女性の独特な民族衣装が目を引く。


 事前に目を通していた資料通りの容姿。このホテルのオーナーであるヴァンサン・エマニュエルの『妻』であり、インドの極右政党ヴィシュヌ・セーナーの党首の娘であるシヴァンシカ・ラール・ガーンディ=エマニュエルに違いなかった。


 その後ろには同じインド人と思われる男達が二人ほど控えていた。恐らく彼女の個人的なボディガードか。そのシヴァンシカの目がこちらを向いた。



「あら、次のお客様はまた一段と美男美女で眼福な事。さぞや絵になる接吻・・を見せて頂けそうで楽しみだわ」


「……!」


 シヴァンシカは完璧な英語の発音で上品にコロコロと笑う。まずはこの女性の目を欺かねばならない。いや、欺く必要などない。何故なら……


「ほう、そいつは光栄だな。じゃあご期待に応えて存分に鑑賞させてやろうぜ」


「ええ、そうね、あなた・・・


 肩を組んで抱き寄せてくるユリシーズを熱っぽい目で見上げるビアンカ。そう……本心から彼を愛しているのだから、そこに演技など必要なかった。



 シヴァンシカや他の招待客、そしてイリヤ達も見守る中、二人は躊躇いなく熱い接吻を交わした。ビアンカの中に再び昨晩の甘い記憶と感触が蘇ってくる。夢中で口づけを交わす二人の姿に周囲から感嘆や羨望の吐息が漏れる。


「うふふ、あなた達は間違いなく心から愛し合っているのね。お陰様で良い物を見せて頂いたわ」


 やがて乾いた拍手の音が聞こえてくる。シヴァンシカだ。それを合図に二人は名残惜しくも・・・・・・唇を離す。


「へ、それで俺達は合格かな?」


「ええ、勿論よ。どうぞお通り下さいな。私達のパーティーを楽しんで頂けるよう願っているわ」


 彼女はそう言って中庭に続く扉を手振りで示す。その言葉や態度に嘘は無さそうだ。こうして無事に難関・・を突破したビアンカ達はいち早くパーティー会場へと乗り込んでいった。

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