Episode5:ジェローム・アイゼンハワー
今回の
ダウンタウンから川を挟んで一歩隔たっている故に都会の喧騒からは切り離された風光明媚な土地で、DCにあるワシントン記念塔を模して造られたバンカーヒル記念塔が地区のどこからでも目に付いた。
「ふぅん、穏やかでいい所そうね。景色も綺麗だし」
事務所に向かう車の中で、窓の外の景色を何とはなしに眺めながら呟くと、隣に座るサディークは鼻を鳴らした。
「そうかぁ? さっき通り過ぎた
「ちょっと、サディーク……!」
ビアンカは運転席の方を気にしながらサディークを肘で小突く。彼女らが今乗っている車は空港に降り立ったビアンカ達を迎えにやってきたというアイゼンハワー弁護士事務所の物であった。そして運転手は……
「うふふ、構いませんよ。本当の事ですから。私達が利便性の高いノースエンドに事務所を移すように何度提案しても、自分の気に入っている場所でなければいい仕事が出来ないと首を縦に振らなかった偏屈な人ですからね、ボスは」
運転席で言葉通り本当に気にした様子もなく笑うのは、30歳前後と思われる優しそうな雰囲気の白人女性であった。グレーのスーツ姿だ。シンシア・リードという名の女性弁護士で、アイゼンハワーの助手の1人らしい。
ビアンカの『天使の心臓』という特性上、あまり公共交通機関を利用したくない為アイゼンハワーの方で手配してもらったのだ。とはいえ滞在が予想以上に長引き独自に動く機会が増えるようであれば、現地でレンタカーを調達するしかないだろうが。
シンシアの運転する車はチャールズタウンの只中にある、アパートを兼用するビル街の一角で停まった。
「着いたわ。アイゼンハワー弁護士事務所へようこそ」
シンシアが示したのは、大きめのアパートの一階部分にあるテナントであった。大きめと言っても勿論ボストンのダウンタウンに林立するようなビルとは比較にならない。つまりそこに入っているテナントの面積も
(……本当にここが
車から降りたビアンカはふとそんな事を思ってしまう。そのくらいこじんまりとした佇まいであった。しかしテナントの窓には確かに『アイゼンハワー弁護士事務所』の文字が。
「おいおい、大層な肩書の割には随分と
控えめという表現はサディークにしては気を遣った方だろう。サウジアラビアの王族である彼からしたら、自らの持つ『力』を様々な形で誇示するのは当然の価値観なのだろう。
「それに近い事も言った事があるんですが、ボスは自分が気に入った納得できる仕事しか受けたくないので、今のままの方が都合がいいと言って聞かなかったんですよ」
シンシアが嘆息しつつ苦笑する。どうやらアイゼンハワーはかなり偏屈な人物であるようだ。まあそんな人物だからこそ自由党陣営やマスコミの執拗な嫌がらせにも屈しなかったのかも知れないが。
シンシアに案内されてこじんまりした事務所の扉をくぐる2人。面積は狭いが、そこは全米に名を知られた有名人の事務所。内装には充分金が掛けられているようで、壁紙や家具、調度品の類いはどれも高級かつ品の良い装いで静謐な空気を部屋に醸し出していた。
部屋の中央には大きな応接セットが置かれ、両脇のキャビネットにはこれでもかというくらいの本が収納されていた。法律関係の本が多いようだが、何故か映画やサブカルチャー関連の本も混ざっていた。
部屋の奥には大きな執務机が置かれており、その机に着いてラップトップと睨めっこしながら携帯電話で何か話をしている人物が1人……
「……!」
ビアンカは息を呑んだ。勿論
シンシアが手で合図をするとすぐに気付いたアイゼンハワーが頷いて、断りを入れてから電話を切った。そしてこちらを見て椅子から立ち上がった。
「よく来てくれたね。会うのは初めてだが一目で分かったよ。君がダイアンの娘……
「……! は、はい、ビアンカです。よろしくお願いします、Mr.アイゼンハワー」
事前に抱いていた偏屈なイメージとは異なり、気さくで落ち着いた雰囲気を醸し出すアイゼンハワーが手を差し出してきたので、慌てて握手するビアンカ。
「ははは、今や大統領となったダイアンのお嬢さんに畏まられると寧ろこちらが緊張してしまうな。どうかジェロームと呼んでほしい。個人的に……アイゼンハワーという姓はどうしても
「そ、そうなんですね。では……ジェローム」
冗談めかした口調で笑うアイゼンハワー……ジェロームに、ビアンカも釣られて少し微笑んで呼び直す。彼も満足そうに頷く。
「うん、それでいい。そして君は……ダイアンの話だとサウジアラビアの王子だという事だが、あー……握手でいいのかな?」
「ああ、構わねぇよ。サディークだ。それに王子ったって俺は政治には関わってない放蕩息子だからな。そっちこそそんなに堅苦しくなくていいぜ」
サディークも割と気軽に握手に応じる。普段の言動から誤解しがちだが彼は決して粗忽者ではなく、相手が礼を失しないのであれば自身も礼を失する事は無い。
挨拶が済んだビアンカ達はジェロームと向き合って応接セットのソファに座る。すぐにシンシアがティーセットを用意してくれる。彼女はそのまま受付兼助手用のデスクで自分の仕事を始める。
「さて、今回君達に来てもらった
ジェロームの確認にビアンカは頷く。彼ほどのキャリアがある弁護士に現在の仕事を休職してもらう事になるのだ。相応のポストを用意するのは当然だ。また彼の能力や影響力を考慮するなら極めて妥当な人選でもある。だが……
「はい、聞いています。そしてそれを
その為に自分達が呼ばれたのだ。だがここでサディークが疑問を呈する。
「だがどうも分からねぇな。ビアンカの『天使の心臓』の事はアンタも知ってるんだろ? はっきり言って
「……!」
そう言われれば確かに疑問だ。ビアンカの特性は悪魔を呼び寄せてしまうので、彼女に身辺警護などさせたら却って危険な事になる。ニューヨークでもそれが理由で直接の護衛任務からは遠ざけられたのだ。
「そう思うのは当然だ。だが君にボストンに来て欲しいとダイアンに願ったのは私自身なのだよ」
「え……?」
「仮に腕利きの護衛だけを呼んで中間選挙の期間を乗り切れたとしよう。だがそれだとこの地にいるカバールは護衛を警戒して何も仕掛けてこない、もしくは手下を差し向けるだけで自身は最後まで表に出てこない可能性がある。というより
この時点でビアンカにも、ジェロームが何故
「なるほどなぁ。つまり『対症療法』じゃなく『根治治療』をしちまおうって訳か」
「そういう事だ。どうせならこの機会に『膿』を全部出しきってしまいたいんだ。カバールは厳密な縄張り意識に支配されていて、他のメンバーが勢力を伸ばすのを良しとしない事は解っている。この街に潜むカバールを炙り出して退治してしまえば、少なくとも当面の間は安泰だ。ニューヨークのカリーナ女史のようにね」
ジェロームも少し人の悪そうな笑みを浮かべる。当然だがただ人が良いだけの人物ではないようだ。でなければ弁護士としてこれだけの実績は挙げられないだろう。
「いいねぇ。そういう考え方は嫌いじゃねぇ。俺に任せとけ。ビアンカに釣られて出てきたアホ悪魔はきっちり仕留めてやるからよ」
「そうですね。私の『天使の心臓』がお役に立てるというなら精一杯頑張ってみます」
「うん、宜しく頼むよ、2人とも」
ジェロームもビアンカ達も立ち上がって改めて握手を交わす。こうしてビアンカのボストンでの任務が正式にスタートした。
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