Episode8:嵐の前の休息
最初はマンハッタンに行こうとしていたビアンカ達だが、よく考えたら国連本部ビルも州検事局も全てマンハッタンに所在している。ビアンカ達もマンハッタンに行ったらダイアンやリキョウ達とニアミスする確率も高くなり、『エンジェルハート』を利用して敵の注意や戦力を分散させるという役割も果たせなくなってしまう。
ユリシーズにそう指摘された事で、とりあえず今すぐマンハッタンに行くのはお預けとなった。ビアンカもニューヨークの象徴とも言えるマンハッタンに行ってみたいという気持ちはあったので残念ではあるが、自分達は観光で来ている訳ではない。まずは任務を優先しなければならないだろう。
「まあ別にマンハッタンだけがニューヨークじゃない。今いるこのクィーンズだってマンハッタン以上に多種多様な移民たちが集っていて人種の坩堝になっているからな。その分世界各国の色んな文化や料理に触れられるのも特徴だ」
ユリシーズがビアンカを慰撫するように両手を広げて周囲を見渡すように促す。サディークも頭を掻いた。
「はぁ……ま、しょうがねぇか。それに俺達がマークされるのも時間の問題だろうしな。確かに大統領や検事総長の近くにいる訳にも行かねぇな」
このニューヨークにもカバールの構成員が潜んでいる事は間違いないと思われる。そして当然ながら大統領たるダイアンがこの街へ赴いている事は向こうも承知していて、何らかの手段でその動向を監視している可能性が高い。
だとするならそのダイアンのSPに扮してここまで同行していたビアンカの事にも、既に気付いている可能性はある。そうなれば敵がいつ仕掛けてきてもおかしくはない状況だと言える。悪魔にとって『エンジェルハート』は無視できない垂涎の餌なのだから。
「そうね。仕方ないけどウォール街の屋台はお預けね。じゃあこの近場で何か食べていきましょうか」
「この地区にはさっき言ったように色んな国の移民たちが独自のコミュニティを形成してるからな。そこに行けばその国の料理を食べられるって寸法だ。そういう意味では食の街とも言えるなニューヨークは。何か食べてみたいものとかあるか?」
「私? そうねぇ……」
ユリシーズに聞かれて少し考え込むビアンカだが、彼女が答える前にサディークが発言した。
「アラブ系のコミュニティもあんのか? だったら俺はそこに行きてぇな。この国じゃ一々豚肉が入ってない料理を見分けるのも大変だしよ」
「お前には聞いてないぞ。そんなに面倒だと言うならさっさと国に帰ったらどうだ?」
にべもないユリシーズの返答にまた2人の空気が険悪になりかけるが、ビアンカがそこに割って入る。
「あら、いいじゃない。アラブ系の料理とか私も食べてみたいわ。昼食はそこにしましょう」
こういう時は優柔不断な態度を取らずにさっと決めてしまった方が良い。ビアンカも段々彼等の扱いが解ってきた。
「お、いいね! 俺は鶏のケバブが大好物なんだよ。アラビア料理を扱ってる所なら大体どこでもあるからおすすめだぜ」
サディークが嬉しそうに笑う。ケバブというと庶民的なイメージがあるが、何故だがサディークには合っている気がした。
「まあ聖戦士としての任務中はお上品な料理食ってる場合じゃなかったからな。街で手軽に食える料理がどうしても中心になりがちだ。そんな生活をしばらく続けてたらすっかりジャンクフードに嵌っちまってな。俺以外にも『ペルシア聖戦士団』の連中は多かれ少なかれジャンクフードマニアばっかだぜ」
それだけ聞くとまるで刑事のようだ。いや、取り締まる
そしてやや不本意な様子で嘆息していたユリシーズを促して、アラブ系のコミュニティがある場所へ案内してもらう。クィーンズ地区のやや外れた通りにあるそこは、一見すると気づかずにそのまま通り過ぎてしまいそうな狭い路地であった。
だがそこには路地から溢れそうなくらい雑多な人々が集まり、表通りに劣らない程の活気を呈していた。路地に並ぶ出店は確かにアラブ系の店主が殆どであったが、通りを行き交う客はやはり様々な人種でごった返していた。
しかし表通りはまだしも、このような路地では黒いスーツ姿の3人は目立つ。好奇や詮索の視線がいくつも彼等に注がれる。
「おお、これだこれ! 鶏やラムの焼けるいい匂いがするぜ」
「で、でもよくこんな所知ってたわね?」
だがそんな事は全く気にせず故郷の匂いや雰囲気を感じたらしいサディークが破顔する。それを尻目にビアンカがユリシーズに問い掛けると、彼は肩を竦めた。
「ニューヨークにはガキの頃に
「へぇ……そうなのね」
余り聞く機会のない自分の実父の話。そしてユリシーズの
「お! あそこにケバブ屋があるぜ! ほら、行くぞビアンカ!」
「あ、ちょっと……!?」
だがサディークが彼女を半ば引っ張るようにして強引に動き出したので、その話を続ける機会を逸してしまった。
サディークが目を付けたのは比較的大きめの出店で、もう昼時を過ぎた時間帯なのにまだまだ多くの人が並んでいた。どうやら人気店らしい。実際にビアンカも肉の焼ける音と香ばしい匂いで急激に空腹を意識し始めてしまう。
ケバブ以外にもファストフードの類いが売られており、鶏肉の間に玉ねぎなどの野菜を挟んで串焼きにしたシシ・トゥクや、細かく切った肉や米、野菜を薄いパンのような生地で巻いたシュワルマなどビアンカが初めて見るような料理もあった。
サディークがアラビア語で店主に何か話しかけると、店主はびっくりしたように目を瞬いた。他の客とのやり取りを聞いていた限り英語も話せるようだがかなり拙かった。黒スーツ姿のサディークがアラビア語で話しかけてきた事に一瞬驚いたようだが、彼がまた何かを喋ると店主もすぐに笑顔になった。恐らく自分もアラブ人だと伝えたのだろう。
そこからお互いにアラビア語でしばらくやり取りすると、店主がケバブやその他の料理をいくつか包んで手渡してくれた。
「喜べ、ビアンカ。あの店主、サウジアラビア出身だったらしい。
明らかに払った料金よりも多くの料理を手渡してきたのはそういう事か。まさか王子だとは言っていないだろうが。
狭くて人通りの多い裏路地にはテラス席など洒落たものはない。建物の段差や街路樹などの縁、そして階段などに直接座るか、もしくは空いている隅の方で立ち食いが基本スタイルだ。
ビアンカはシュワルマという料理を選んだ。これが一番おいしそうな匂いがしたのだ。サディークやユリシーズは巨大なケバブに豪快にかぶり付いている。
「何だ、お前。中々の喰いっぷりじゃねぇか」
「は、当然だ。こちとら王子様とは違ってお上品な胃袋はしてないんでな。こんな物、20秒もあれば平らげられる。お前には無理だろうがな」
「けっ、上等だ! 本場の喰い方ってヤツを見せてやるぜ!」
子供じみた言い合いから早食い競争を始める2人。まあこれは険悪というより彼らなりのコミュニケーションかも知れないと思って放っておく。
偶にはこういうスタイルの食事もいいかも知れない。これからも任務中などはどのような状況で食事がとれるかも分からないのだし、こういう事にも慣れておいた方がいいだろう。
紙に包まれた料理はかなり熱そうだった。サディークから慣れないうちは齧るように少しずつ食べるのがコツだと教えてもらった。
「……! おいしい!」
言われた通りに齧ると香ばしい匂いと共に、肉と野菜と米が程好くマッチした味が口の中に広がる。ビアンカが思わず呟くと、ユリシーズと早食い競争に興じていたサディークが嬉しそうに笑う。
「だろ? シュワルマは向こうじゃ割と定番の国民食でな。こいつだけでやってる店も沢山あるくらいだ。中身によって店ごとに個性も出せるしな」
アメリカでいうホットドッグやハンバーガーのような物だろうか。なるほど、そう思えば何となく納得できた。
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