Episode10:宗教戦争
『西区』の外れにあるこじんまりした古着屋。それが現在この自治区における
「元々この近くにあったモスクはあの『フロイト教』の連中に破壊されてしまいました。今はここが我々の唯一の拠り所です」
ビアンカとサディークをここに案内してきたカシームがそう言って嘆いた。因みにここの店主もムスリムらしい。その伝手でこの店に就職できたようだ。
「ほう……」
サディークは倉庫の中を覗いて感心した呟きを漏らした。そこには他にも10人以上のムスリムと思しき人々がおり、祈りを捧げている最中であった。カシームの妻のハディもそれに加わっている。とりあえず一通りの祭祀設備は揃っているようだ。
「とはいえ場所も狭いのでこれ以上の事が出来ないのも現実です。奴等がこれ以上の
「…………」
キリスト教や仏教などは基本的に専門の聖職者たちがおり、それ以外の一般信徒はそこまで宗教に比重を置いた生活をしている訳ではない。特に仏教などでは冠婚葬祭などの祭祀以外では宗教に関わらない者も多いだろう。
だがイスラム教はそれらと比較すると性質の異なる宗教であり、生活への密着度合いが高い。定期的な礼拝や断食などはその最たる例だろう。他宗教のような専門の神職がおらず、いわば信徒一人一人が聖職者のようなものだ。
それだけにこのように宗教活動を制限されると、それは文字通りの死活問題となってくる。今カシームが言ったように、最悪それが理由で移住まで考える必要が出てくるのだ。だがアメリカではムスリムのコミュニティはそこまで大きくなく、新参者を受け入れるキャパシティのある所は少ない。
アフガンから移住してきたばかりのカシーム達では、安定した転居先を見つける事自体一苦労であろう。彼等がここを離れたがらないのも致し方ない事だ。
「ち……俺も焼きが回ったな。アメリカに来てしばらくはイスラム教から離れた生活をしようと思ってたが、どうやらそうもいかねぇようだ」
サディークは嘆息しつつ頭を掻いた。結局彼もムスリムとしての属性から外れる事は出来なかったようだ。彼はとりあえず『フロイト教』を
「ここを離れたって行く当てなんかねぇだろ? だったら
「た、戦う、ですか? 『フロイト教』の連中は凶暴ですし数も多い。とても我々に抵抗できるとは思えません」
カシームは目を瞬かせた。どうやらその選択肢を今まで考える事さえしていなかったらしい。しかし現実的には彼の言う通りだろう。ムスリム達の数は少ないし本来なら到底勝ち目は無いだろうが、今は状況が違う。
「凶暴で数も多いからこそ、このまま放置してるといずれはここも襲われるぜ。この前の様子を見る限りそれも時間の問題だ」
ビアンカもこの前の『フロイト教』の連中を思い出して、それが正しい事を確信した。ましてやあの連中には宗教という
もう話し合ったり隠れ潜んだりしている段階ではない。移住や転居が難しい以上、サディークの言う通り
「お、襲われる!? そんな……私達はどうしたら!?」
「落ち着け。乗りかかった船だし、俺達が力を貸してやるよ。お前も構わないか?」
サディークがそう言ってカシームを安心させてからビアンカにも一応確認してくる。といってもまさかこの状況でやめようなどと言えるはずもないし、彼女自身このムスリム達を放っておくのも気が引けたのは事実だ。
(それに……どんな形であれカバールの注意を引けるかもしれないのは変わらないしね)
そう結論付けてビアンカは頷いた。要は巧妙に隠れているだろうカバールの悪魔を炙り出してその影響力を取り除くのが目的なので、その
「ええ、任せて。あんな卑劣なだけの奴等に負ける気はないわ」
悪魔や神仙でもないだだの暴漢ならビアンカでも十分対処できる。勿論数が多くなったり銃火器を使ってくるようだとその限りではないが、それこそ銃も問題にしないような超人のサディークがいる。
「し、しかし……準備と言っても何をしたら?」
「別に大層なモンは必要ねぇ。ただ連中の暴力に屈しない気構えだけあればいい。実際の荒事は俺らが
「え……?」
何かの気配を敏感に感じ取ったサディークが好戦的に口の端を吊り上げ、それを見たカシームが戸惑うのとほぼ同時に……
「た、大変だ! 『フロイト教』の奴等が大挙してこっちに向かってきてるぞ!」
「……!!」
この店の店主であるアラブ人が慌てた様子で駆けこんできた。カシームだけでなくその場にいた他のムスリム達も動揺してパニックに陥りかける。だが……
「落ち着けっ! さっきも言ったろ。荒事は俺達に任せとけ」
サディークが一喝するとそれだけでムスリム達の混乱がある程度収まる。彼の自信に満ち溢れた態度がそうさせるのだろうが、それだけではなく彼には生まれついての『王者の風格』というものがあるようにビアンカには感じられた。ムスリム達も無意識にそれを感じ取ったのだ。
「ビアンカ、俺はちょっくら表に出てくる。だが相手の数によっちゃ、もしかしたら
「ええ、解ってるわ。こっちは任せて」
サディークの強さを見た『フロイト教』がそれで引き下がってくれるなら良いが、先だってと同じように人質を取って、などと考えたりしたら面倒だ。もしもの時の為にビアンカはここに残ってカシーム達を直接警護する役割だ。
サディークが店の表に出ると、そこには既に20人以上はいる『フロイト教』の信者たちが前の通りに集っている所だった。
「おーおー……強面どもが雁首並べちまって、シカゴのギャングも真っ青の暴力集団ぶりだな」
サディークが鼻を鳴らした。男達はその多くが手に銃器の類いを所持していた。ちょっとでも意に沿わない対応をしたら容赦なく発砲する気だろう。彼はそれを見て却って嬉し気に口の端を吊り上げた。これで一切遠慮する必要が無い。
「お前か、我等の
信者たちの先頭にいる男がサディークを指差して怒鳴った。男が合図すると残りの連中が一斉に銃口を向けてきた。
「さあ、汚らわしい異教徒ども。ここで蜂の巣になるか、この自治区から尻尾を巻いて出ていくか選ばせてやる。言っておくが脅しじゃないぞ? ここはアメリカの憲法が通用しない治外法権の場所なんだからな。ここでお前らを殺してもアメリカの警察には何も出来ん。退去を選ばせてやるのはマーティン様のせめてもの慈悲だと思え」
「く、くくく……いやぁ、やりやすくて助かるねぇ」
サディークは向けられた銃口を怖れるどころか、むしろ自分から前に進み出てきた。
「き、貴様、何を笑っている!? ハッタリだと思っているのか! ええい、もういい! あいつから撃ち殺せっ!」
リーダー格の男が指示すると、それに従って周りの男達が持つ銃火器が一斉に火を噴いた。間断ない銃撃音が響き渡る。男達も、そして遠巻きに様子を眺めていた野次馬達も、皆が無謀なアラブ人の凄惨な死を確信した。だが……
「は、ははははっ! おら、そんなもんか、チンピラ共がぁっ!!」
「んなぁっ!? ば、馬鹿な……!?」
そこには両手を広げた姿勢で、避ける事も無く全ての銃弾を
サディークは自身の膨大な霊力を防御に転化して、身体全体を言ってみれば『霊力の鎧』で覆った状態となっていたのだ。彼がその気になればユリシーズの攻性魔術すら正面から受け止める事が出来る。いわんや魔力も込められていない只の銃弾など、文字通り蚊に刺された程にも感じなかった。
「今度はこっちの番だなぁ? 人様に向けて殺すつもりで銃を撃ったんだ。お返しに何されても文句はねぇよな?」
「ひ……!? ば、化け物だ! 撃て撃てぇっ!!」
信者たちは焦って更なる銃撃を加えてくるが、当然サディークは意にも介さず突っ込むと刀を抜く事も無く、素手で信者たちを当たるを幸い殴り倒していく。素手と言っても勿論霊力は付与されているので常識外れの威力となっており、ビアンカが霊力グローブで殴るよりも更に強い剛撃は、喰らった男達の骨を砕き顔面を陥没させ内蔵を破裂させる。
いっそ曲刀で一思いに斬った方がまだ慈悲があったのではという凄まじいダメージを叩き出して暴徒達を沈黙させていく。それは最早襲われている側にとっては一種の
とても人間の手で太刀打ちできる存在ではない。遅まきながらその事に気付く『フロイト教』の信者たち。
「な、何だ、こいつ。人間じゃねぇ! おい! こうなったら作戦変更だ! お前ら2人、裏からあの店に回り込んで、中の連中を人質に取ってこい! そうすりゃあの化け物も抑えられるはずだ!」
リーダー格の男が側にいた2人の信者に卑怯な作戦を指示する。命じられた2人はこれ幸いと頷いて戦線を離脱すると、サディークの目を盗むようにして他のムスリムが隠れていると思われる店内に踏み込む。
店の奥は倉庫になっていて、そこに簡易的な礼拝所があることは既に調査で解っている。他の連中はそこに潜んでいるに違いない。2人の男は勇んで踏み込むが……
「ふっ!!」
「――ぎゃぼっ!!」
倉庫に踏み込んだ瞬間、女の気合の掛け声と共に膝蹴りが飛んできた。顔面にまともに食らった男がもんどり打って倒れ込む。
「予想通りこっちにも来たわね。弱い者を人質に取ろうなんて見下げ果てた連中ね」
そこにはビアンカが準備万端で待ち構えていた。残った男は慌てて彼女に銃を向ける。
「こいつ、抵抗する気か! ならば死ね!」
何故白人の彼女がここにいるかの誰何もせずに問答無用で発砲しようとしてくる。ビアンカ自身はアルマンのチョーカーを装備しているが、流れ弾が後ろのムスリム達に飛んだりすると不味い。
「させないっ!」
素早く低い姿勢で踏み込むと、男が発砲しようとする腕を掴んで捻りあげる。男が呻いて銃を取り落とすが、ビアンカはそのまま男の腕を引いてがら空きになった頭に連続で蹴りを叩き込んだ。男が白目をむいた所に、腕を掴んだまま背負投げを決める。受け身も取れずに叩きつけられた男は完全に気絶した。
「ふぅ……来たのはこの2人だけみたいね」
他には敵がやってこない事を確認するとビアンカは息を吐いた。他は全てサディークが受け持ってくれたようだ。外からは先程凄まじい銃撃音が鳴り響いたが、それに続いて男たちの阿鼻叫喚が聞こえてきて、今はそれも静かになった。どうやら全て片付いたようだ。
銃を持った20人以上の凶暴な男たちに襲われたのだ。普通なら絶望するしかないが、生憎ビアンカの連れは誰も普通ではない。ビアンカは改めてそれを実感して苦笑した。
「おい、皆無事か!? さっき2人ほど中に入ってくのが見えたが、他の奴等を片付けるのに忙しくてよ」
そのサディークが戻ってきた。そしてすぐに床を舐めている2人の男に気づいてニヤリと笑った。
「流石だな、ビアンカ。本当にいい女だぜ」
「や、奴等を全部撃退したのか!? し、信じられない!」
その台詞にビアンカが何か反応する前に、カシームがムスリム達を代表して駆け寄ってきた。サディークは肩をすくめる。
「ああ、とりあえずはな。だが俺の予想ではこのまま何事もなく終わるとは思えねぇな。もうこれは『フロイト教』との
ペドロから聞いた『教祖』マーティンとやらの性質からしても、確かにこのまま終わるとはビアンカにも思えなかった。『フロイト教』の威信にかけてこちらを制圧しようとしてくるはずだ。
「ああ、何故このような事に……。私達が一体何をしたと言うのか」
カシームが現状を嘆く。その気持ちはビアンカにもよく分かる。理不尽に襲い来る状況の変化には彼女も馴染みが深い。
「嘆いてるだけじゃ何も解決しないぜ。元々詐欺師が死んだジャンキーを強制的に『聖人』に仕立て上げただけのエセ宗教だ。宗教戦争を仕掛けてくるってんなら遠慮なく叩き潰してやるまでさ。アンタらもムスリムなら自分の信教の自由を守る為の覚悟ってやつを見せてみろよ」
「……!」
改めてサディークから『信教の自由』という言葉を投げかけられて、カシームの表情が少し変わる。
「ああ……ああ、そうだな。私も守らねばならない家族がいる。どのみちこのままでは奴等に追い出されて路頭に迷っていたはずだ。こうなったら私も覚悟を決めます」
「いい顔だ。そうこなくちゃな」
カシーム達も覚悟を決めた事で、一行は具体的に『フロイト教』への対応に話を移すのであった。
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