Episode9:二匹の犬
リトルヴィレッジ内にある『シカゴ・アウトフィット』管轄のメキシコ料理店の1つ。その席の1つにユリシーズと……そしてマチルダが向かい合って座っていた。テーブルにはコーヒーが湯気を立てている。2人はつい先程、2年ぶりに思わぬ再会を果たしたばかりであった。
「……アラスカでの任務のレポートは見た。結局未だにCIAの……ピアース長官の犬のままかよ」
「あら、それを言うならあなただって未だにウォーカー大統領の犬のままじゃない。お互いにそう簡単に抜けられる身分でも立場でもないのは解ってるでしょう?」
嫌味を言うユリシーズだが、即座に同じ嫌味を返されて苦い顔になる。だがそれでも言葉を重ねずにはいられなかった。
「カバールの悪魔と手を組んでビアンカを捕らえて、そいつに差し出そうとしたらしいな? お前、自分が何をしてるか解ってんのか?」
「あなたに言われるまでもなく解ってるわよ。『エンジェルハート』がいなくなればカバールが怖れるものは何もなくなる。そうなればあなたのボスはいずれはカバールとの暗闘に敗れて闇に葬られる。そして自由党が政治の中枢に返り咲く事になる。ご愁傷様」
しれっとのたまうマチルダの態度に、ユリシーズは額に青筋を立てる。
「俺が言ってんのはそういう事じゃねぇ。ビアンカの生い立ちはとっくに知ってんだろ? あいつは本来何の罪もない純然たる被害者なんだ。『エンジェルハート』なんて厄介な代物を持ってさえいなけりゃ、一生こんな世界とは無縁でいられた女なんだ。お前はそれを知っていながらあいつを悪魔に差し出したのかよ」
「私がどう思っているかなんて組織には関係ないわ。そして私はただ長官の命令を忠実に遂行したまでよ。個人の意思は組織が行動するに当たっては不純物にしかならないわ」
糾弾しながらも彼女が何と答えるかほぼ予想出来ていたユリシーズは、まさに思っていた通りの反応に増々苛立って渋面となる。逆にマチルダは少し面白そうな表情になった。
「でも……ふぅん、そうなのね? 今はあの娘にご執心って訳? でもあの娘は激しい炎みたいなものよ。つまりあなたと同じという事。互いにぶつかって相手を打ち消そうとするばかりで、上手く行くわけがないわ」
「……ち、どいつもこいつも。勘違いするな。あいつとはそんなんじゃない。ただの警護対象ってだけだ」
ヴァチカンでマクシミリアン4世に散々弄られた記憶も新しいユリシーズは忌々し気に舌打ちする。マチルダもまた彼が何と答えるか解っていたらしく、苦笑したように肩を竦めた。
「はいはい、そういう事にしておいてあげるわ。でもその肝心の『警護対象』と離れて、こんな所で油を売っていていいの? それとも何か理由があって別行動しているかしら?」
「……!」
探りを入れてくるマチルダにユリシーズも気を引き締める。
「とぼけるな。お前らCIAこそ何が目的でマフィアに入り込んだりしている? このタイミングでかち合うなんて確実に偶然じゃない。お前らは
アラスカでの一件を例にとるまでもなく、基本的にCIAのピアース長官は自由党陣営であり、カバールとも協力関係にあるといって過言ではない。そして今この街では裏でカバールが関与していると思われる新種のドラッグが出回り、大きな問題となりつつある。
CIAが今この時期にこの街にいるとしたら、確実にこのドラッグ絡みであるはずだ。尤も聞いた所でマチルダが素直に答えるはずもないが……
「偶然じゃないというのはこちらの台詞よ。大統領府も例のあの……『エンジェルハート』というドラッグの調査に来たのでしょう? あなたがここに潜入してきた事で、やはり『シカゴ・アウトフィット』は
「……! 何……お前らもドラッグの調査を? どういう事だ? ドラッグ流通の裏にいるのはカバールのはずだろうが?」
マチルダがこちらの目的を察している事を悟ったユリシーズは、変に誤魔化す事無く正面から斬り込む。カバールとCIAは協力関係にあるので、CIAはむしろ流通させる側に関与していると思っていたが、今の彼女の言い方はまるでこちらと近い立場にいるかのようだった。
「……あなたも知ってると思うけど、カバールも一枚岩ではないわ。いえ、それどころか言ってみれば全員が
「なるほど……つまりこの一件は、お前らも与り知らない事態という訳か。カバールの唯一の掟は相互不干渉だ。このドラッグの件はそれに抵触するかも知れないって事で、お前がその調査に派遣されてきたって所か」
「まあ……そうなるわね」
マチルダは渋々という感じで認めた。無論腕利きのスパイである彼女の事、全幅の信用を置く訳にはいかないが、カバールの内情をある程度とはいえ知っているユリシーズからすると如何にもあり得そうな話ではあった。
「なら今回騒ぎを起こしていると思われる構成員は誰なんだ? そいつの表の顔は? その辺りはピアースから聞いていないのか?」
それが解ればユリシーズとしては非常に
「無理よ。全てを把握してるのはピアース長官だけだけど、彼等は絶対に互いの情報を漏らさない。それもまたカバールの数少ない不文律よ。少なくとも今回の件が完全に悪魔の仕業だと裏が取れるまで、誰が構成員なのか判明する事はないでしょうね」
「ま、そりゃそうだろうな」
ユリシーズは肩を竦めた。駄目で元々で聞いてみただけだ。だが他に気になる事もあった。
「しかしお前がこの『シカゴ・アウトフィット』に潜入してるって事は、CIAもシカゴ市警の捜査状況から『容疑者』を絞り込んだって事か。だとするとホットドッグスの方には誰が潜入してるんだ?」
「ホットドッグスですって? ああ、なるほど。あの娘がここに居ないのはそういう事ね。だとするとあの娘はハズレを引いたかも知れないわね。現時点の調査ではホットドッグスは『エンジェルハート』の大規模
「……!」
となるとホットドッグスを調べていて不審死した刑事は、単にドラッグの流通先を追っていただけという事か。
「まあだからと言ってこの『シカゴ・アウトフィット』が必ずアタリだともまだ言えない状況なんだけどね。それを調べる為に潜入しているのよ」
「…………」
マチルダが本当の事を言っているという前提だが、そうなるとビアンカ達の方は無駄足という事になる。だがそれを伝えると彼女はこちらの調査に合流しようとするだろう。
そしてそうなると……ビアンカとマチルダが再会する事になる。それも以前マチルダと交際していたユリシーズの前で。マチルダはビアンカに対してアラスカでの
別に何も問題はない。彼とビアンカは交際している訳でも何でもなく、只の警護対象とSPという関係に過ぎないのだから。それにマチルダとはビアンカと出会うよりずっと前にお互いに納得ずくで別れているのだ。そういう意味でも何も問題などなかった。……ないはずだった。
だがビアンカとマチルダは出会った経緯を考えれば、互いに良い感情を持っているはずがない。そのマチルダと以前に交際しており肉体関係もあったとビアンカに知られるのは何となく避けたいものがあった。ビアンカからアラスカでの報告を聞いた際に、その場ですぐにマチルダとの関係を言わずに黙っていた事も若干後ろめたさがあった。
(……まあ構わねぇよな? むしろ
内心の後ろめたさから目を背けて彼はそう自分に
「それでお前はここに潜入したはいいが、どうやってボルドリーニの信用を勝ち取るつもりなんだ? まさか用心棒として雇われた訳じゃないんだろ?」
話を逸らしたいユリシーズが別の質問をする。マチルダもCIAのエージェントとして戦闘訓練は受けているが、彼女自身はあくまで普通の人間だ。ビアンカのように
「あら、スパイとしての私の
「……つまり
苦々しい表情と口調で呟くユリシーズに、マチルダは妖艶な微笑みを浮かべて
「そう。それも戦闘訓練を受けていていざという時のボディガード代わりにもなるから、危険な抗争中でも常時連れ歩ける便利な情婦という訳ね」
彼女は実際にその
「でも流石に雇われたばかりだから、
お互い先に情報を得たとして、それを相手に報せる義務はない。互いが属している組織が潜在的に敵同士となれば尚更だ。
(ち……少々厄介な事になってきやがったな)
内心で舌打ちするユリシーズだが、それを隠して口許を歪める。
「で、その情婦がこんな所で別の男とお茶してていいのか? それこそボルドリーニの不興を買うぜ?」
「ご心配なく。むしろボルドリーニから、あなたと知り合いならしっかり
マチルダがやや冗談めかして揶揄した。ボルドリーニがまだニューヨークにいた頃に、彼を襲う下級悪魔達相手に子供の身で無双した事があるので、その時の印象が相当に強かったのだろう。無論今の自分は実際あの頃より更に強くなっているので彼の見立ては間違ってはいないが。
「でもそろそろ戻らないとそれこそ不興を買っちゃいそうね。一緒に――――」
そこまで言った時、マチルダの携帯が鳴った。いや、彼女だけではない。ユリシーズの携帯もほぼ同時に鳴った。番号を見ると『シカゴ・アウトフィット』の連絡係からのものだった。マチルダも同じく『シカゴ・アウトフィット』からのようだった。
とりあえず電話に出る。
「どうした?」
『ああ、あんたか! すぐに繋がって良かった! ボスが呼んでる。ウチに対する襲撃を目論んでるギャングがいるらしい! それもすぐにでも攻めてきそうな気配だ! とりあえず急いで『リトル・パレルモ』まで来てくれ!』
「……! 解った、すぐ行く」
ユリシーズは厳しい表情で電話を切る。マチルダも殆ど同時に電話を切っていた。どうやら同じような呼び出しの電話らしい。
「早速あなたの出番のようね。じゃあ一仕事と行きましょうか?」
「ああ、不本意ではあるがな」
ユリシーズは一つ溜息をつくと、支払いを済ませてマチルダと共に店を出た。そしてここに来るときに使った車に乗り込み、一路『リトル・パレルモ』へと向かうのであった。
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