Episode18:過ぎし日の思い出

 道場のような場所で彼女・・は一人の成人男性と向き合って構えていた。身長は190センチはあり、体重も100キロは超えているだろうという筋骨逞しい巨漢だ。対して彼女の方はまだ中学生・・・の少女であり、体格・体重ともに比較にならなかった。


 階級性が採用されている格闘技の試合などではまずあり得ない光景であった。しかしこれは公式の試合などではなく、あくまで稽古・・の一環なのでそういったウェイト差により区別など存在していない。


 というより目の前の男性が、彼女にそのようなウェイト差を考慮した試合・・の練習をする事を禁じていた。彼が要求するのは常に実戦・・を想定した訓練であった。


 男が蹴りを繰り出してくる。その100キロを超える体重が乗った蹴りは重く、それでいて筋力に裏づけされたスピードも兼ね備えている。しかし男の攻撃は容赦ない。


「く……! ぐっ……!」


 男の蹴りをガードする度に全身が揺さぶられる。吹き飛ばされないように踏ん張るのが精一杯だ。体力だけが恐ろしい勢いで削られていく。



「どうした、ビアンカ・・・・! ただやられっぱなしか!? 反撃してみろ! 実戦では相手は女の子だからって容赦はしてくれないぞ!?」


「……!」


 少女――ビアンカは歯をかみ締める。余りにも理不尽だ。確かにこの国全般、それほど治安がいいとは言えなかったが、それでもアフリカや中南米という訳ではない。ここまで実戦訓練・・・・をするほどではないだろう。少なくとも彼女の周囲には誰もこんな事をやっている家庭はなかった。


 だが泣き言を言っても始まらない。そういった問答は過去に飽きるほど繰り返してきている。そしてのエリックがそんな彼女の言い分を聞いてくれた事は一度もなかった。


 それはある意味で常軌を逸しているとも言えた。父はそういった漠然とした危険に対する物ではなく、まるで必ず訪れると分かっている危機に対処する為に、彼女に護身術を仕込んでいるようにも思われた。



「……っ! うおおぉっ!!」


 だがそんな僅かな思考の最中にも父は容赦なく攻撃してくる。ビアンカは父が大振りな蹴りを繰り出してきた隙を突いて、自分から反撃に転じる。


 まともに打ち合った所で到底敵わない。なので最初から急所狙いだ。実戦を想定しているのでそれは反則ではなく、むしろ推奨さえされていた。


 ローで相手の脛……ではなく、足の甲を狙う。だが父は予期していたのか、素早く足を引いて避けてしまう。しかしビアンカもまた避けられる事を想定していた。そのまま踏み込んで今度は股間目掛けて金的・・を仕掛ける。中学生の少女とはいえ平均より相当鍛えられており、全力で蹴り上げられれば大の男でも悶絶するだろう。


 しかしエリックもさる者。それにも素早く反応して彼女の蹴り上げを手で受け止めてしまった。だがビアンカはそれでも怯まない。彼女の金的を止める為に僅かに身を屈めていたエリックの下顎目掛けて、飛び上がるようにして頭突きをかます。


「……!」


 それでようやくエリックの不意を突く事ができたらしく、彼女の頭がエリックの顎にぶつかる。エリックが僅かによろめく。格好の追撃のチャンスに逸った彼女は、再度脚を蹴り上げて金的を狙う。だが……


「甘いっ!」

「っ!!」


 即座に体勢を立て直したエリックが、今度は彼女の脚を掴み取ってもう一方の軸足に足払いを掛ける。


「あ……!」


 一方の脚を掴まれている彼女は為す術なく転倒してしまう。そのまま起き上がる暇もなく上からエリックに押さえつけられる。こうなると体格体重差から跳ね除ける事は不可能だ。



「……よし、今日はここまでとしよう」


 決着と判断したエリックが素早く離れる。油断してもたもた離れると、ビアンカから反撃を食らう可能性があるからだ。彼自身がそうするように教え込んだ。


「……私の頭突きを食らってからよろめいたのは誘い・・ね?」


 そう確信したビアンカがやや恨めしげな目で睨みあげると、エリックは肩をすくめて頷いた。


「その通りだ。それに気づけただけでも進歩したな。もっともあの頭突きが私の不意を突いたのは事実だ。生憎少し踏み込みが浅くて威力が足らなかったがな」


 ビアンカに手を貸して立たせながら、エリックは悪びれる事無く笑った。


「でも一撃当てられたのは事実でしょ? 約束は守ってくれるのよね?」


「勿論だ。今日はママに連絡して、特製のチーズハンバーグを作ってもらうとしようか。それも大サービスで2つだ」


「ホントっ!? やったぁ!! パパ、大好き!」


 母の手製ハンバーグはビアンカの大好物であった。彼女は先程まで扱かれていた疲労と、ついでに不平不満も忘れて嬉しさで飛び上がった。


 それは彼女にとって最も幸せであった中学時代の、とある一幕であった……



*****



「……はっ!!」


 ビアンカは目を覚ますと同時に、反射的に身を起こした。いや、起こそうとした。どういう訳か身体が動かなかった。そしてすぐに現状を確認して、身体が動かない訳を悟った。


 どこか薄暗い大きなホールのような場所にいた。そのホールの中央に装飾の施された白い大理石の十字架が据え付けられており、彼女はその十字架に磔にされているのだった。十字の形に沿って伸ばされた両手首と足首には黒い金属の枷が取り付けられて、彼女の身動きを封じている。


 また十字架は下の部分が長い杭のようになっており、彼女はかなり高い位置に磔られていた。それによって今自分がいるホールのような場所の全容が見渡せたが、周囲には大小様々な絵画や彫刻などの芸術品が設置されており、まるで美術館かなにかのような印象を与えた。



(こ、ここ、どこ……? 私、何で……あれからどうなったの? ユリシーズは……?)


 一瞬の混乱から立ち直った彼女は、すぐに状況を思い出す。もう少しでこの街から抜け出せるという所で悪魔たちの攻撃で車が大破し、その後追いかけてきた警察本部長のエメリッヒと死闘になった。


 エメリッヒが恐ろしい悪魔の姿に変身したのには驚愕したが、その戦いで瀕死になったユリシーズがさらに禍々しい『黒騎士』へと変じ、エメリッヒを一方的に屠ってしまったのには心底から驚愕させられた。


 しかしその後脱出行を再開しようという時に、突如フィラデルフィアの市長であるジェリー・T・ハンターが現れて、ビアンカを捕らえて連れ去ってしまったのだ。彼女は気絶させられ、気付いたら今の状況になっていたという訳だ。


 現状から判断するに彼女は未だハンターの手の内にあるようだ。必死で身体をもがかせるが、十字架の拘束は全く緩む気配がなかった。




「――どうかな、私の趣向は? 気に入ってもらえたかな?」




「っ!?」


 全く唐突に正面から男の声が聞こえて、彼女はビクッと身を硬くした。先程辺りを見渡した時は確かに誰もいなかった。


 聞き覚えのある声の予想通りホールの床に立って磔のビアンカを見上げているのは、彼女を連れ去った張本人のハンター市長であった。テレビや新聞、ネットなどで見たままの姿であり、信じがたい事だが確かにハンター市長本人であるようだ。


 そしてビアンカは思い出した。ハンター市長の所属政党は……自由党。現大統領ダイアン・ウォーカーが率いる国民党とは真っ向から対立する野党。


 あの時ユリシーズは匂わすだけで明言しなかったが、ウォーカー大統領と対立しているカバールという組織は、やはりこの自由党が深く関わっているのだ。ビアンカはたった今それを確信した。

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