Episode9:日常の残滓

 それから次の日の夜になるまで、この「隠れ家」でまんじりともせずに過ごす事になった。ビアンカは自分を否定して言う事を聞かせようとしてくるユリシーズに反発して、常にそっぽを向いてふくれっ面を維持し続けていた。


 しかし空腹や喉の渇き、それにトイレなどの生理現象には抗えない。ユリシーズが恐らく予め所持していたのだろう携帯用の栄養補給バーを何本か差し出されると、ビアンカも完全には彼を無視する事ができず本当に渋々といった感じで礼を言って食べ物を受け取った。


 水もどうやって調達したのか解らないが、ペットボトル入りのミネラルウォーターを貰えた。ビアンカはそれにも礼を言いつつ、あなたは食べないのかと聞くと、彼は「俺は普通の人間とはちょっと違う・・んで、その気になれば1週間くらい飲まず食わずでも平気でね」と肩を竦めた。


 そういえば彼が結局何者・・なのかは聞けずじまいだった事にビアンカは気付いた。あの魔法のような力といい、人間離れした身体能力といい、そして今の台詞といい、明らかに彼は見た目通りの存在ではなかった。


 あの金色に輝く瞳は見せてもらったが、それ以外に彼の正体を類推する手掛かりは何もない。本人は余り語りたがらない様子であったので、彼女としても敢えて自分から聞く事は躊躇われた。



 そうして日が高い日中の内は潜伏を続け、夜になってから外の見張りを続けていたユリシーズが戻ってきた。


「……よし、ぼちぼち人通りも少なくなってきた。ここを出てDCに向かうぞ。準備はいいな?」


 そう促してきたので頷いて立ち上がったビアンカだが、彼女は少し言いづらそうに切り出した。


「あの……この街から脱出するのはいいんだけど、その前に寮の私の部屋に寄れないかしら? その……どうしても回収しておきたいものがあって」


「何だと?」


 ユリシーズが睨み付けるような目で見てくる。彼女は少し気まずげに目を逸らした。追われている身である事を考えれば、一目散にこの街からの脱出を図るべき時だ。自分がいかに愚かな事を言っているかの自覚はあった。だから今まで言い出せずにいたのだ。


 だが一晩考えて、やはりどうしてもそのまま打ち棄てていく事は出来ないという結論に達したのだ。



「今更何を言ってる? 回収したい物だと? お前の部屋には当然奴等が監視を置いているに決まっているだろう。却下だ」


「……っ」


 予想通りのにべもない態度に彼女は動揺する。しかしこればかりは大人しく引き下がる気は無い。


「そ、そんな事解ってるわよ! でもどうしても行かなきゃならないのよ! このまま捨てていくなんて出来ない!」


 彼女の強い調子にユリシーズはピクッと眉を上げた。


「一体何を回収するって言うんだ?」


「……どうしても回収したい物は二つよ。一つは腕時計で、私が高校に上がった際にパパとママ・・・・・が買ってくれた物よ」


「……! コールマン夫妻か」


「ええ、そうよ。ウォーカー大統領が実の母親? そんなのいきなり聞かされたって何の実感もないし、私にとっての親はパパとママだけよ。その腕時計は両親が贈ってくれた遺品・・なの。絶対に失くす訳には行かないのよ」


「…………」


 ビアンカの両親・・は彼女が高校に上がって間もなく、事故により他界してしまった。あの腕時計は両親が最後に贈ってくれた物なのだ。


 彼女にとって直接会った事も無い雲の上の大統領なんかより、よほど大切な人達との思い出の品であった。


「……もう一つは?」


「あいつらに虫けらのように殺された私の親友……エイミーの物よ。彼女が大切にしていた髪留めがあるの」


 いつも寝る時には外してサイドボードの抽斗に入れていた。そんなに高価な物ではないし、つい2日ほど前の事だからまだそこに残っているはずだ。そのカバールとやらへの怒りを忘れない為にも親友の形見として持っておきたかった。


 それ以外にもスマホやら何やら、回収できる物は可能な限り回収しておきたい。



 ビアンカがこれだけは絶対に譲れないという意思を込めてユリシーズを睨んでいると、彼はやがて盛大に溜息をついて頭を掻いた。


「はぁ…………。まあ……俺達が街を出ようとするのは連中も読んで、罠を張ってる可能性も高いしな。逆に今の状況でお前の部屋に行くってのは、案外連中の盲点を突いている可能性もあるな」


「……! それじゃあ……」


「ただし! これはあくまで例外だ。それ以降、基本的にホワイトハウスに着くまでは俺の言う事に絶対に従ってもらうぞ。それが条件だ」


 喜色を浮かべるビアンカに釘を刺すユリシーズ。彼としてはそれが最大限の妥協なのだろう。それでこの頼みを聞いてくれるなら、勿論彼女に異存はなかった。


「ええ、解った。約束するわ。……ありがとう」


「……! ち……じゃあさっさと行くぞ」


 彼女が小さい声で礼を言うと、ユリシーズは驚いたように少し目を開いて、それから顔を逸らして出発を促した。人の事は言えないが余り素直な性格ではないらしい。


 ビアンカは内心で少しだけ微笑ましく思いながら頷くのであった。





 人が寝静まった深夜の時間帯。大都市であるフィラデルフィアでは深夜でも人通りが完全に途絶える事はないが、それでも日中と比較すれば格段に人の耳目は少なくなる。


 そんな深夜の暗闇の中、二つの人影がテンプル大学の学生寮に忍び込んでいた。言うまでも無くビアンカとユリシーズの2人であった。


 ビアンカだけであればとうに誰かに見つかって大騒ぎになっていた可能性があるが、ユリシーズは再びあの不思議な魔法のような力を使って、自分達の周囲にのみ『結界』を張った。それによって他人には自分達の姿が映らないのだという。


「こんな便利な力があるんなら、誰にも見つからずにこの街を出るのは簡単じゃない?」


 そう思っての疑問だったが、ユリシーズはかぶりを振った。


「相手が人間・・だけならとっくにそうしているさ。だが奴等カバールも上位の者になってくると……恐らくあの本部長辺りは似たような力が使えるはずだ。それはつまり俺がこうして魔力・・を使う事によって、奴等に居場所を探知される危険も高まるって事だ」


「……!」


「俺がお前の監視・・をしていた時にこの力を使わなかったのは、それによって却って奴等の注意を引いてしまうのを避ける為だった。まあ結局奴等も独自の情報網でお前の事を見つけちまった訳だが」


「…………」



 2人は会話の最中にも寮内に侵入して、ビアンカの部屋に向かって進んでいく。……ビアンカとエイミーの部屋だった・・場所へ。


「……っ」


 その事実と、逮捕される前と何も変わらない寮の風景に、ビアンカは胸を締め付けられるような感触を味わった。


 つい一昨日までこれが当たり前の景色であったのだ。大学の講義に出て道場で空手に汗を流して、ヴィクターや他の友人達と馬鹿騒ぎして、部屋に戻ればエイミーとその日にあった事を語り合って……


 そんな当たり前の日常。


 それがいかに大切なもので……そしていかに脆い物であるかを、彼女は身を以って学んだのだ。もう二度とあの当たり前の日々に戻る事は出来ないのだろう。あの日々は当たり前ではなくなり……新しい当たり前・・・・・・・が日常となるのだ。


 そんな感傷に思わず目尻から光る物が零れ落ちた。



「……どうする? このまま行けるか?」


「……っ。と、当然でしょう。私なら何も問題ないわ。夜遅いからちょっと欠伸が出ただけよ」


 ユリシーズの言葉に、彼女は慌てて涙を拭って何事もない風を装う。恐らく彼には見抜かれてしまったと思うと急激に恥ずかしさが込み上げるが、強引にそのまま押し切った。彼も特に何も言わずに肩を竦めた。


「まあ、それならいいさ。そういう訳で奴等に察知されて押し寄せられる前に、さっさと用事を済ませるぞ」

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