4.母として女として

 そして、あっと言う間に時は流れ、今日はクリスマスイブです。

 スポンジケーキにクリームその他をデコレーションするやり方を美代子に教えながら、私は楽しかったこの一年間のことを思い返していました。


  * * * 


 あのクリスマスの日の朝食のあと、私は初めて“久賀小夜子”としてお手洗いに入り、座って用を足したのですが……正直、あまり違和感は感じませんでした。


 もともと、男性だって大きい方をする時は座りますし、そもそも今みたいなスカートを履いた状態で立ち小便するというのもやりづらそうですしね。

 万が一、そんなコトをして女子トイレで便座を上げたままにしたりしたら、さすがに他人に怪しまれるでしょうし(推理小説やマンガで、女装しているキャラがバレる際のお約束のひとつですよね?)。


 無事に用を足し、朝食の後片づけを終えたのち、せっかくのクリスマスなので、私は娘とふたりで出かけることにしました。

 と言っても、ふたつ離れた駅前のデパートに買い物に行くだけなのですが、美代子は「ママとお出かけ」するのが余程うれしいのか、いつもより子供っぽくはしゃいでいます。


 美代子は、白いカシミアのセータードレスに真紅のベロア地のポンチョを羽織り、私は赤いストレッチベルベットのツーピースの上に、クリーム色のモヘヤのウールコートを着こんで、「サンタさんと同じ色だね」と互いに笑い合います。


 懸念していた9センチヒールのミディブーツも、思ったほど歩くのに手間取りません。あるいは、これこそが私が“久賀小夜子”という存在たちばになっていることの証なのでしょうか。


 そう言えば、記憶にある我が妻は、どんな格好をしていてもピンと背筋を伸ばして姿勢が良く、そのクセ、女らしく優雅な立居振舞を絶やさない、素敵な女性でした。

 ──私は、そんな彼女の名を汚さぬよう、極力仕草などにも気を使うことを心に誓ったのです。


 ともあれ、今は美代子との“おでかけ”が最優先事項です。


 “孝太郎ちちおや”であった頃は、妻のショッピングに付き合うのは、嫌とは言わないまでも、夫としての義務と割り切っていたのですが、こうやって“小夜子ははおや”としての立場で娘と買い物に来ると、視線、あるいは物の見方が随分変わっていることを感じます。


 美代子と歩調を合わせ、娘の好奇心いっぱいの様子を微笑ましく感じながら、デパートの中をいろいろ眺めて歩いているだけで、とても楽しいのです。


 無論、愛娘とともに過ごす時間だからというのもあるのでしょうが、そればかりでなく、俗に言うウィンドーショッピングという行為自体に、自分が面白みを感じているのがわかります。


 とくに、“孝太郎”としては鬼門に近かった子供服や婦人服、あるいはキッチン用品のフロアーなども、ディスプレイされた商品を見ながら歩いているだけで何時間でも過ごせそうです。


 そればかりでなく、つい衝動ぶつよくに負けて、美代子のための可愛らしいニットの帽子と、自分用のマフラー、そして親子ペアのミトン型手袋を、「せっかくのクリスマスだから」と自分に言い訳しつつ、買ってしまいました。


 「えへへ~、ママぁ、にあうかな?」

 「ええ、もちろんよ、美代子ちゃん」

 「わーい♪ ママもね、そのマフラー、とってもステキだよ」

 「うふふ、ありがと♪」


 そんな風に買ったばかりの衣料品を身に着けて、母娘で笑い合います。


 ──ああ、そうですね。この頃には、すでに私の頭の中には、自分が本当は父親の孝太郎であるという意識は、すっかり抜け落ちていました。


 私がかろうじてその自覚を取り戻したのは、娘を連れて入った、デパートの女子トイレでスカートの中のショーツを下ろしたときでした。


 「キャッ!」


 しかも、あろうことか、自分自身のナニを見て、まるで見慣れぬ、あるいは久しぶりに目にするモノであるかのように驚いてしまったくらいです。


 「どうしたの、ママぁ?」 

 「あ……ううん、何でもないのよ」


 そして、そんな状況下でも、個室のすぐ外で待つ娘の心配そうな声を聞いた途端、私の意識は母親らしいモノへと即座に復帰していました。


 ──どうやら、コレは「美代子のママという立場になる」という枷のようなものなのかもしれません。


 自分の意識を歪められているようなのは、あまり気持ちのよいものではありませんが、どの道、一年間は今の立場に甘んじるしかないのです。ならば、下手に逆らって不審な行動をとるより、流れに身を任せる方が得策でしょう。

 自分の中でそう折り合いを付けると、私はこのまま“久賀小夜子”としての振る舞うことを改めて決意しました。


 トイレから出て、そのままデパートのレストラン階で少し遅めの昼食をとったのち、私と娘は、仲良く手を繋いで帰宅しました。


 それにしても、朝食の時も感じましたが、やはり“久賀小夜子”の立場になっているせいか、普段の半分くらいの食事量でお腹がいっぱいになってしまいます。亡き妻は、確かに食の細い人でしたが……どうやら、今の立場ではダイエットの必要はなさそうですね。


 さて、家の前まで帰ってくると、ちょうど、門柱の前で見覚えのある男性と鉢合わせしました。


 「!」

 「あ、サスケおじさんだぁ!」

 「──こんにちは、美代子ちゃん。

 小夜子さん、よろしければ、お宅にお伺いしようと思っていたのですが……」

 「ええ、もちろん、歓迎するわ」


 娘同様、私も笑顔で彼を我が家に招き入れます。


 彼の名前は、ロジャー・S・ヒュウガ(通称ロイ)。本来は日系三世のアメリカ人ですが、小学生のころに家族ぐるみで日本に移住してきたため、金髪碧眼の外見に反して、そのメンタリティはほとんど日本人と変わるところはありません。


 私とは──孝太郎としても小夜子としても、高校時代に出会って以来の友人で、孝太郎とは同じ会社に勤める同期の桜でもありました。

 我が家にも時折遊びに来てくれましたし、美代子も「サスケおじさん」とまるで、実の叔父のように懐いています(ちなみに、本人いわく、ミドルネームのSが「サスケ」なのだとか。本当か嘘かは知りませんが)。


 「せっかくのクリスマスにケーキのひとつも食べないのは悔しい気がしたんだけど、いい歳した男がひとりで食べるのは寂し過ぎるからね。良かったら、おじさんといっしょに片付けてくれないかな?」


 そういう口実で、立派なクリスマスケーキ──ブッシュドノエルを手土産に持って来てくれたようです。


 「わーい、チョコレートケーキだぁ!!」


 無論、美代子は大喜びです。

 まったく……ケーキなら、昨日、あれだけ食べたはずなのに……。


 「あまり、甘やかさないでくださいね、ヒュウガくん」

 「ははっ、まぁ、年に一回のクリスマスくらいはいいじゃないですか」


 ともあれ、去年のクリスマス──私が「小夜子」になった最初の日は、そうしてつつがなく過ぎていきました。


  * * * 


 翌日の月曜日は、私の久賀小夜子としての初出勤……だったのですが、こちらも拍子抜けするほどスムーズに事が運びました。


 亡き妻は、美代子を産むまでは、主に女性向け下着メーカーとして知られる“ルコーワ”という会社に勤めていたのですが、未亡人である私は、どうやら同じ会社に職場に復職しているようです。


 軽く緊張しつつ、カッチリしたベージュのスーツ(もちろん女物です)と濃色のストッキング、7センチヒールのキャリアパンプスで身支度を整え、冬休み中の美代子にいい子でお留守番しているように言い含めてから、私は家を出て電車に乗りました。


 やはり小夜子としての知識が刷り込まれているのか、乗り替え駅も、駅からの道のりも簡単にわかります。

 それどころか、一度も入ったことのないはずのルコーワ本社に堂々と正面から足を踏み入れ、守衛さんに軽く笑顔で会釈しつつ、エレベーターに乗ると、意識しないで8階──“小夜子わたし”が働く開発部のあるフロアのボタンを押していました。


 職場に着いてからも、昨日──正確には一昨日の夜まで、名前も顔も知らなかったはずの“同僚”や“部下”と気軽に談笑しつつ、慣れた手つきでパターンナー(デザイナーのデザインを実際の衣服に仕立てるための型紙を作るお仕事です)としての業務をこなしていきます。


 そして、一分一秒ごとにそんな自分に対する驚きの念が薄れ、まるで数年来の古巣にいるかのような、よくも悪くもこの場に慣れた感覚が、私の心を満たしていくのです。


 その日の6時過ぎに退社する頃には、私は、単なる脳内の知識だけでなく心情的にも、この商品開発部第三課のチーフパターンナーになりきっていました。


 初日の今は、かろうじて自分の内心の変化を、一歩引いて客観的に眺めることが出来ていますが……このままひと月、いえ一週間勤めただけで、もはやその些細な違和感すら消えてしまうのではないでしょうか。


 ──実際、その予想は当たり、わずか3日後には、如何に良いデザインの商品を生み出せるかについて、パートナー・デザイナーである大瀬芙美子さん(ちなみに、私の1年上の先輩でもあります)と、活発に意見を戦わせるようになっていました。


 ともあれ、新しい仕事(という感じは正直あまりしないのですが)に早々に馴染めたのは、歓迎すべきことなのでしょう。ルコーワは福利厚生も充実していますし、職場の雰囲気も良いのですから、むしろ万々歳と言ってもよいくらいですよね?

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