3.状況開始

 12月25日──クリスマスの日の朝、目が覚めた私が最初に感じたのは、フローラルで優しい──そしてどこか懐かしい印象の香りでした。


 (はて、天国とやらは花が咲き乱れていい香りがする、と聞いたことはありますが、それにしても、この匂いは、どこかで嗅いだ記憶があるような……)


 その正体を確かめようと、目を開けた途端、視界に入って来たのは、見慣れた我が家の寝室の天井にほかなりません。


 (え……? 私は、妻の代わりに死んだんじゃあ……)


 いえ、よくよく考えてみれば、アレは単なる夢だったのでしょう。いい歳した大人が、随分メルヘンチックな夢を見たものです。


 私は、苦笑しながらベッドの上に起き上が──ろうとして異変に気付きました。


 第一に、目の前にある布団の色が、いつもとまるで異なります。

 昨日までは、シンプルな水色のカバーをかけた普通の掛け布団だったはずなのに、なぜか白いフリルで縁取られたファンシーなカバーのかかったピンク色の羽布団に変わっていました。


 そして、慌てて起き上がったことで滑り落ちた掛け布団の下から現れた私の身体は、いつも紺色のパジャマではなく、オフホワイトのワンピース型夜着ナイティ──俗に“ネグリジェ”と呼ばれる寝間着を身に着けていたのです。


 「な!? ななな……」


 シルクコットン製でしょうか、とても肌触りがよく、また身体の線を締め付けない着心地のよいモノでしたが、そんなことはなんら慰めになりません。

 混乱しつつ、どこか見覚えがあるので、再度よく見てみれば、何のことはない、生前の妻が何度か着ていたはずの代物でした。


 (ど、どうしてこんな……)


 今この家にいるのは、私と美代子のふたりだけですし、まだ8歳の幼児である美代子に、私を起こさずに着替えさせるなんて芸当は到底できません。

 そうなると、「誰か他の人が着替えさせた」か、もしくは「自分で着替えた」の二択です。


 前者は、ワザワザそんなコトをする意味がわかりません。あるいは、この姿の私の写真を撮って、脅迫にでも使用するつもりでしょうか?

 しかし、会社で同僚などとの交流つきあいは少ない私ですが(美代子のことがあるので、できる限り家にいてやりたいのです)、その分、同時に他の人の恨みを買うような可能性もあまりないはずです。出世関連もむしろ遅い方ですし……。


 後者は──もし私に夢遊病の気があったと仮定したら、あり得ない話ではないかもしれません。たとえば、昨夜、美代子の「サンタさんへのお願いの手紙」を見たので、無意識に自分が母親代わりを務めようとした、とか?


 (あの奇妙な夢も、もしかしたら、その伏線だったのかも……)


 なんとなく結論が出た気になって、私は苦笑しつつ、ベッドから抜け出そうとしたのですが……。


 ──ファサッ……


 頭から垂れ下がった「何か」が肩を覆う感触に、ギクリと動きを止めました。


 (もしかして……カツラまで!?)


 何と言うことでしょう。あるいは、夢遊病時の私には、女装の趣味でもあったのでしょうか。


 しかし、慌てて、背中の半ばまでを覆うその綺麗なライトブラウンの髪を引っ張ってみたのですが……。


 「い、イタタッ──まさか、コレ、自毛!?」


 どうやっても“カツラ”は取れず、それどころか乱暴にしたせいか、長い髪が何本か抜けて涙目になる始末です。


 たった一晩で、日本人成人男性のごく平均的な長さだった髪が、ここまで伸びるなんて、ただごとではないでしょう。

 思い起こせば、この髪の色も、生前の妻が好んで染めていた色に相違ありません。


 ──もしかして、私は、とんでもない勘違いをしていたのでしょうか?

 昨夜、「夢」の中でサンタクロースと交わした約束が事実だったと仮定して、「久賀孝太郎の代わりに小夜子が甦る」というのは、私が死ぬのではなく、私を妻の肉体に変えてしまうという意味だったとしたら……。


 慌てて、私はベッドの脇に置いてある妻の化粧台ドレッサーの前まで足を運びました。


 けれど、鏡に映る姿は、私のその予想を裏切るものでした。


 夜着や髪型などの全体の印象は、確かにパッと見、妻の小夜子と似ていますが、よく見れば顔立ち自体は私自身のモノにほかなりません。


 生憎、私は成人男性としては体格的にも貧相な方──160センチ台前半で、事務職のせいか筋肉もほとんど付いてないので、こんな格好をしていてもあまり違和感はありませんが、それでも、その平らな胸や股間の膨らみを見れば、男性であることは一目瞭然です。


 「これは一体……」


 呟きかけて、私はドレッサーに見慣れない紙片のようなモノが置いてあることに気付きました。


 恐る恐る手に取って開くと、それ自体は「メリー・クリスマス」と書かれた平凡なクリスマスカードだったのですが……同時に、頭の中に夢の中のサンタの“声”が聞こえてきたのです。


 いわく、死者の蘇生はやはり問題があるので、私の提案通り、“久賀孝太郎の存在”を代償に、“久賀小夜子の存在”を復活させたのだとか。


 つまり、今の私は、他人からは、「3年前に夫を亡くして女手ひとつで娘を育てている女性、久賀小夜子」として認識されるのだということ。


 肉体そのものを女性に変えなかったのは、1年間という期限付きで元に戻るので、私の身体に短期間に2度も大きな負担をかけるのははばかられたからだということ──ただし、サービスで体毛の永久脱毛処理がされているので、髭剃りその他の手入れは不要とのこと。


 そして、肉体的には男性でも、自分以外の他人の目や耳などの五感、そして機械のセンサー類には、ちゃんと“小夜子”として感知されるので、安心してよいこと。


 最後に、今の私は妻が結婚前に勤めていた会社ルコーワで働いていること。


 それらを一方的に説明した後、カードは以後沈黙を保ちました。


 「そ、そんな事言われても……」


 「ママが欲しい」という娘の望みが叶ったこと自体は喜ぶべきなのかもしれませんが、いきなりこんな状況に放り出された私は戸惑うばかりです。


 とは言え、幸いにしてコレは一年間の期限付きのシチュエーション。元々「死んでもいい」というくらいの気持ちで妻の──いえ、「美代子の母」の復活を願ったのですから、これくらいの労苦は甘受すべきなのでしょうね。


 私は覚悟を決めて、まずは「キチンとした母親」らしい格好に着替えようと、妻のタンスを開けて、今日着る服を選び始めました。


 タンスの中味の多くには見覚えがありましたが、3分の1程、見慣れない衣服が混じっています。おそらく、「夫が死んで」からの3年間に買い足したものなのでしょう。

 念の為、元の私の服がしまってあるはずのタンスを覗いてみたところ、最近買ったはずの何点かが見当たらないので、この推測は当たっていると思います。


 さて、いかに既婚男性だからと言って、伴侶の着替える姿を頻繁に目にしていたワケではありません。むしろ、小夜子は、たとえ夫にでも、化粧している場面や着替えを見られるのを嫌がるタチでした。

 そのため、男性のそれよりはるかに複雑で繊細な、女性の衣服に着替えるという作業が、巧くできるか心配だったのですが……。


 結論から言うと杞憂でした。


 妻の──そして今は私のものとなっているタンスを開け、休日(今日は幸いにして日曜です)用の衣類ひと揃えを下着も含めて選び出し、それを身に着ける──そんな一連の行動を、ほとんど手間取らずに行うことができました。

 どうやら、「久賀小夜子」として暮らしていくのに必要なだけの知識は、ちゃんと私の頭の中に備わっているようです。


 ショーツとセットになったブラジャーを取り出して、キチンと正しいやり方でそれを胸に着けることも、男物とは逆に付いたブラウスのボタンを留めることも、スカートを履いたあとの裾さばきさえも、ほとんど無意識に近いレベルでできています。

 ──むしろ、意識すると、途端に恥ずかしく、ぎこちなくなるので、極力意識しないように務めました。


 早朝の冷たい空気に身を震わせつつ、洗面所で、まずは軽く水で顔を洗い、頭を覚醒させます。そのまま、今度は洗面台の横に置かれた洗顔フォームを付けて、ぬるま湯で丁寧にお肌の手入れ。最後にもう一度、冷水+ヘチマ水でお肌を引き締めます。


 20代前半までならいざ知らず、お肌の曲がり角もとうに過ぎた30代ともなると、洗顔ひとつとっても、色々気を使うもの……らしいです。


 その心遣いのおかげか、元々あまり色黒とは言えない私の肌ですが、昨晩までの記憶にあるより、ずっと白く、また滑らかになっているように感じられました。

 鏡に映る細く刈られた眉毛には、微妙な違和感を感じざるを得ませんが、生前の妻の行動からすると、「今時の成人女性」なら眉の手入れは必須なようなので、仕方ありません。むしろ、今後は自分で気をつけないといけないのでしょう。


 いったん、寝室にとって返し、ドレッサーの前に腰かけて、ブラッシングと、休日用の簡単なメイクを施します。


 妻が生きていた頃は、「家の中だけなのに、わざわざ化粧なんてしなくても……」と呆れていた記憶があるのですが、いざ自分がその“妻”の立場になってみると、たとえ顔を合わすのが娘だけだとしても、やはりスッピンだと落ち着かないようなのです。

 あるいは、娘には「ママはお家の中でもちゃんと綺麗にしてる」と見られたいのかもしれません。


 幸か不幸か、ナチュラルメイクを施した私の顔は、ミス・キャンパス級の美人だった妻──“本物”の小夜子には遠く及びませんが、それでもごく普通に30代初めの女性に見える造作に仕上がっていました。

 顎が細めでエラの張っていない、いかにも草食系の(見ようによっては中性的な)顔立ちが功を奏したのかもしれません。


 たとえ他人には、不思議パワー(?)のおかげで“小夜子”に見えるのだとしても、自分の目からも平均点ギリギリとは言え女性に見えないこともない面相だったことは、主に私の精神衛生上、有難いと言えるかもしれません。

 今後はこうやってしばしば(というか毎日)鏡に向かいあう機会があるのですから、鏡を見るたびに化粧オバケと対面せねばならないとしたら、私にとって拷問以外の何物でもありませんからね。


 とりあえず、一通りの身支度を整えたのち、私は寝室からキッチンへと移動して、朝食を作り始めました。


 普段の私は、トーストを焼くほかは、せいぜいベーコンエッグを作りコンビニで買ったサラダを付けるくらいですが、「小夜子が生きている」という設定のせいか、朝は滅多に使わなくなった炊飯器でキチンとご飯が炊かれています。


 「ええと、今朝は……」


 何を作ろうかと考えただけで、冷蔵庫の中身と調理方法が自然に脳裏に浮かび上がってきます。


 そして、30分後、我が家の朝の台所には、久しぶりにお味噌汁の香りが漂い、私がこの手で調理した卵焼きと焼き鮭、ヒジキの煮物と自家製のお漬物が並べてありました。


 「うん、これでよし、っと」


 満足げな笑みを浮かべた私は、いったんコンロの火を止めてから、子供部屋に娘を起こしに行きました。


 親の欲目を承知で言いますが、美代子の寝顔はまさしく天使のようです。

 私が優しく揺さぶると、ゆっくりと目を覚まし、ボンヤリした表情から徐々に覚醒すると、ニッコリと花のような微笑を浮かべて、「おはようございます、ママ♪」と元気よく挨拶してくれました。


 それは、本来の孝太郎としての立場の私が、近年滅多に目にしたことがないほど、無邪気で翳りのない笑顔。


 その事実に、微かに胸の奥がチリリと痛みますが、今はソレをかみ殺して、同じく笑顔で「おはよう、美代子ちゃん」と返事をしました。

 あるいは美代子だけは私が孝太郎だったことを覚えているのではないか……という懸念は、考え過ぎだったようです。


 「わぁ、ケータイでんわだぁ♪」


 靴下に入れられたクリスマスプレゼントを見て、美代子は無邪気に喜んでいます。

 どうやら、昨晩書いた「サンタさんへの手紙」にも、そのことを書いていたみたいです。


 (あ……「パパが欲しい」とは書いてくれなかったんだ)


 「ママぁ、どうしてさびしそうな顔してるの?」

 「え!? あ、ううん、なんでもないのよ。さぁ、朝ごはんが出来てるから、早く顔を洗ってらっしゃい」


 妻の口調を真似する……必要もなく、スルリとそんな言葉が口からこぼれます。


 「はーい!」


 マイ・ラブリー・エンゼルたる愛娘は、そんな私に疑問を抱くことなく、素直にパジャマ姿のまま、洗面所に向かいました。


 「はぁ……これで良かったのよね」


 少なくとも、「ママが欲しい」という美代子の願いに──いささかイレギュラーな形とは言え──応えられたのは事実のようです。その事だけは、サンタクロースに感謝すべきなのでしょう。


 「まぁ、物は考えようよね」


 幸いと言っていいのかわかりませんが、パッと見、「小夜子と美代子」の関係は、「孝太郎と美代子」よりも、ずっと良好で仲良しさんのようです。

 ただでさえ可愛い娘のよりキュートで愛らしい表情を間近で堪能できると思えば、一年間のシングルマザー生活も、苦にならないはずです……たぶん、メイビー。


 「ママぁ、ごはん、食べようよぉ」

 「はいはい、ちょっと待ってね」


 私はキッチンから“ママ”を呼ぶ娘の声に返事をしながら、そんな風に自分に言い聞かせるのでした。

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