第28話

 それは、黒くツヤツヤと鈍い光を放っていた。

 巨大な芋虫のような体から、黄味がかった三角錐の突起物がいくつも飛び出している。

 海底を這うように進む様は、見ていて気持ちの安らぐものではない。寧ろ、激しい嫌悪感に襲われて、腕が粟立つのを感じる。直ぐにでもこの場を立ち去りたくなるが、萌香の手前、逃げ出すことは憚れる。


 というか、あのての生き物は萌香の方が耐性が無いはずなのに、萌香は平気そうにしている。


「たまちゃん!みてみて、ナマコだよ可愛いね。」


 萌香は、言いながら水槽に手を入れてそれを撫でていた。


「たまちゃんどうしてそんなに離れたところにいるの?こっちに来て一緒に触ろうよ。」


「え、えっと、萌香。ここは、子供たちが遊ぶところだし、遠慮して次に行こうよ。」


「えー、でも、お客さん少ないし、まだ私達も子供じゃん。ちょっとくらいはしゃいでも平気だよ。」


「で、でも……。」


「いいから、たまには羽目外して楽しもうよ。」


 萌香は言いながら、さっきまでナマコを撫でていた手を差し出してくる。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。」


 私は、年甲斐もなく叫んでしまう。


 すると、周囲の人の視線が私に集中する。生き物と触れ合っていた子供たちからも、「ママ、あのおねえさんどうしたの?」などと、好奇の視線に晒されていた。


 私は、思わずその場から走って逃げ出す。


 後ろから、「たまちゃんごめん。まって、どこ行くの?」と聞こえて方が、一刻も早くこの場を離れたい一心で、振り返ることもなく走り去った。


 人影が少なく、照明が一段と薄暗くなったあたりで歩調を緩める。後ろを振り返るが、誰もいない。もしかすると、萌香に呆れられてしまったのだろうか。という、不安が押し寄せる。しかし、さっきの場所へ戻る勇気は出ない。先に進むか萌香の元へ戻るか悩み、右往左往していると、突然目の前を私の身長よりも大きなマンボウが通り過ぎる。


「わぁ……」


 私も、このマンボウのように悠々と泳げたらどれだけ良かっただろう。マンボウはフグの仲間で、遠沖で暮らすために進化したらしい。私もいつかは沖に出て行かなくてはならない。いつまでもこのままではいられないのだ。


「よしっ」


 両頬をパチンと叩き気合を入れ直し、今通ってきた道を引き返す。


 すると、通路の向こうから誰かが走り寄ってくる。小柄でポニーテールを揺らす影で、萌香だと分かる。


「たまちゃん。待ってよ。」


「萌香、ごめん。逃げ出したりして。」


「ううん。謝るのはあたしの方だよ。たまちゃん昔から虫とか平気だったから、ああいうの苦手だと思わなくて、ほんとごめん。」


「そうだね、前は平気だったんだけどね……。

そこのベンチで話さない?」


 通路で話し込むのは邪魔になると思い、手近にあったベンチに誘う。


「うん。」


 二人並んで座るのはさっきぶりだけど、電車の中とは違う雰囲気だ。それは、水族館の薄暗い空間のせいなのか、それとも、私の気持ちの変化が生み出していたのかは分からないが、水槽の灯りだけが萌香の顔を照らし出して、俯きがちに此方を見ていた萌香が儚げな印象になり、いつもとの違いにドキッとさせられる。


「私ね、萌香の知ってる私じゃないんだ。昔みたいに勇敢でみんなを引っ張っていけるような存在じゃないんだ。自分で言うのもなんだけどね。」


「そんな事ないよ。たまちゃんはいつもあたしの目標だよ。」


「だから、今の私は違うんだって。前は出来たことができなくなってるの。萌香や他の人にどう思われてるかばかり気になって行動に移せないし、運動も勉強も真ん中ぐらいだし、虫や魚も触れない。こんなの私じゃないよ。」


「違うよ。たまちゃんは何も変わってないよ。いつも人のために動けるし、昔から、運動神経が良かったわけじゃない。人よりも努力していただけだし。教室に入ってきた蜂を先生が殺そうとしたときに、必死に庇って逃がそうとしたのも知ってるよ。優しくて努力家なたまちゃんは昔からあたしの憧れなんだよ。」


「そんなこと、ないよ。」


「そんなことあるっ。」


 萌香が私の肩を掴み、真っ直ぐに見つめてくる。


 私は思わず目を逸らすが、逃さないと言わんばかりに覗き込んでくるせいで、逃げ場がない。肩の手を振り解けばよかったのだろうけど、嫌われたくないという感情が、それさえも阻んでしまう。


「まーちゃん。あたしは、今のたまちゃんも昔のたまちゃんも好きだよ。」


「いやっっっ!」


 その瞬間何が起きたのか、理解が追いつかなかった。萌香の姿が先輩の姿と重なったように見えて、気がついた時には、萌香のことを突き飛ばしていた。


「たまちゃん、ごめんなさい。」


 萌香は弱々しく謝罪をする。


「ち、違うっ。私、突き飛ばすつもりなんてなくて、つい、反射で。」


「反射、うん。そうなんだ、ほんとごめんね。」


 萌香は気にしてないよとでもいうように、にかっとはにかみながら言った。しかし、今までのような生気は感じられない。私は、弁解しなければと思いながらも、上手い言葉を見つけることができなかった。


「折角来たんだから、楽しまないと損だよ。ほら、次回ろう。」


 言いながら萌香は私の手を握る。


「うん、そうだね。いこう。」


 萌香に繋がれた手が熱を持つ。でも、さっきまでのような力強さを感じることはできなかった。

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