第27話

 座席に戻ると、萌香は水族館のパンフレットを見ていた。


「おかえり。」


「た、ただいま。」


 周囲の目が気になってしまい、声が小さくなる。


 萌香が再びパンフレットに目を向けたので、私も覗き込む。


「イルカショーは絶対見ようね。」


 萌香は、まるで子供みたいに目を輝かせていた。


 萌香も変わったよ。と心の中で呟く。


「もちろん。私はクラゲが気になるな。」


「あ、ライトアップ?あたしも見たい!」


 パンフレットによると、約一万匹のミズクラゲがライトアップされるらしい。

 パンフレットの写真だけでも幻想的な光景で、今回一番楽しみにしている。


 それから、水族館に着くまでの間、私達はパンフレットを見ながら期待と想像を膨らませていった。

 回るルートは、事前に萌香が決めていたから、下調べはあまりしていなかった。

 そのせいもあり、パンフレットを見ただけでも、私のテンションは上がりっぱなしだった。







 前面には見渡す限りの蒼が、視界を埋め尽くしている。

 太陽は燦々と照りつけていて、まだ四月だというのに、真夏を思わせるような蒼空に思わず目を細める。

 海岸では、釣りに勤しんでいる人影がチラホラ見える。まだ寒いのによくやるなと感心するが、今日の日差しを思えば、早まる気持ちも理解できる。

 まあ、なかには冬だろうが釣りをする変人もいるらしいが。


 まだ朝だというのにじりじりと照りつける日差しを避けるように歩いていると、隣から「今日はいい天気だね」と、萌香が笑いかけてくる。


 その太陽のような笑顔に、気温がさらに上がったように感じる。


 日差しが眩しくて直視することが出来ない。


「そうだね。」と返して前を向くと、橙色の大きな建物が目の前に現れる。

 円柱状の建物と、四角に建物が結合した人工物丸出しな外観を、煉瓦のような建築材が趣を与えている。私達の目的地である、水族館だ。


 小学生の頃、遠足できた時よりも低い自動扉をくぐり、受付でチケットを渡して入場する。


 館内は薄暗く、ダウンライトと水槽だけ仄かに発光していて幻想的な風景が広がっていた。

 水槽の中にはイワシの群れなどが展示されていて、仄かな光が反射してきらきらと輝いて見える。


「綺麗……。」


 隣で萌香が呟く。そして、私の左手に温かいものが触れる。何かと思って見てみると、萌香が右手を伸ばし、私の手を握っていた。


「萌香?」


「あ、ごめん。」と言いながら萌香は手を離す。


「館内、ちょっと薄暗かったからはぐれないようにと思って。もう、そんな歳じゃないよね。あはは。」


 私は、少し逡巡した後に萌香の手を取る。


「たまちゃん?」


「そういえば、小学生の遠足の時も萌香は迷子になっちゃったよね。」


 そうだ、小学生の時は萌香と一緒に回っていたはずなのに、いつの間にかはぐれてしまって、館内を探し回った思い出がある。


「むっ、違うよ。あの時迷子になったのはたまちゃんでしょ。一人でどんどん先に行っちゃうんだもん。」


「そうだっけ? 萌香が水槽に見惚れてて、一人だけ取り残されたんじゃなかったっけ。」


「ち、違うよ。あたしは、隣にたまちゃんがいると思ってたから。うう、なんでもない。」


 萌香は拗ねたようにそっぽを向いてしまう。

 しかし、握られた手を離さないのをみると、機嫌を悪くしたわけではないようだ。


 手を繋いだまま館内を進んでいくと、最初の目的地であるクラゲの展示スペースに到着する。


 水槽の中には、数え切れないほどのクラゲたちがふわふわと漂っている。そんなクラゲたちに、様々な色彩の光が当てられて、青から緑へ、緑から赤へと変化していく姿は幻想的で、いつまで見ても飽きなかった。


 ふと、気になって萌香の表情をうかがってみると、彼女も此方こちらを見ていて、目が合う。

 彼女は、何か大切なものをいつくしむような優しい瞳をしていて、私は彼女の瞳に見惚れてしまう。


 しかし、それは刹那のことで、萌香はクラゲに視線を移し、「綺麗だね」と呟く。


 クラゲを照らしていたライトは、赤から紫、紫から黄色と刻々と変化している。


「うん、綺麗。」


 まだ、朝早くの時間帯で、周囲に他の観光客がいないこともあり、私はまるで、広い宇宙の中で2人きりで散歩をしているような錯覚に囚われていた。

 ゆらゆらと泳ぐクラゲの輪郭を、ライトの灯りが照らして、発光する様はまるで宇宙の生命体の様だった。

 そんな非現実感の中、握られた左手だけが、ここが現実であると教えてくれた。


 もし今、願い事が叶うのならば、この時間が永遠に続いて欲しいと願うだろう。

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