いつくしみふかき

鯵坂もっちょ

いつくしみふかき

 いつくしみ深き 友なるイエスは

 罪とが憂いを とり去りたもう


知らない世界だな、と思う。日曜日の教会にこれほど多くの人が集まっているなどとは想像したことがなかった。

カトリック旗上はたがみ教会でのミサが始まっていた。


あずまきょうへいにとってはこれが初めての参加だったが、小さい頃に祖母に連れて行かれた寺の「法話」というやつに似ているな、と思いながら、大きな部屋によく響く聖歌隊の歌声に耳を傾けていた。


 こころの嘆きを 包まず述べて

 などかは下ろさぬ 負える重荷を


日曜日に旗上教会に行くといい。いつも一番前の列の右端に座っているのがその人だ。それだけ聞いてここまでやってきた。

視界の端にその姿がある。

清楚。いや、聖母、か。琴弾ことひききよらの第一印象はそうだった。

ベージュの膝丈ワンピースに、黒のローファー、白いレースの靴下。年の頃はよく掴めない。その落ち着きは三十を超えているようにも見えるが、十代と言われればそう見えないこともない。


琴弾は、椅子に浅く腰掛けて前を見ている。聖歌に耳を傾けているというよりは、聖歌隊や神父、司祭などの一人ひとりに対してほほ笑みを向けているように見える。

あれがいわゆる「博愛」という感情なのではないだろうか。東にはそう見えた。

単純に、美しかった。


「琴弾清さんですか」

ミサが終わったタイミングだった。隣に座り、どう考えても偽名のその名で呼びかけると、琴弾は「はい」とだけ言ってこちらを振り向いた。

振り向いたその瞳に一瞬「好奇」のような光が宿ったかのように見えたが、無下にされたら嫌だ、という自身の感情が生み出した幻影だろうと東は思った。


「あの、まあ……なんと言ったらいいか、私は東って言うものですけど、ええと実は、友人からの紹介で。七原ななはらっていうんですけど」

「はい。大丈夫ですよ。クズの話でしょう」

クズ。実際に音声として琴弾の口からその言葉が出るのを聞くと、あまりにミスマッチな心持ちがして東は少なからず戸惑った。

「どなたのお話ですか?」

話が早くて助かる。

「兄です。兄がその……いわゆる『迷惑系YouTuber』というやつでして」


クズに困ってるならこの人をおいて他に選択肢はない。とりあえず一度相談してみろ。

兄のことを七原に相談したらそう言われた。「クズ」を専門的に解決してくれるなど、そんな都合のいい存在があるものかと訝しんだが、琴弾のこの佇まいを見ると、それを信じさせてしまう謎の力があった。


「ひとまず、お兄さまについて聞かせてもらえますか?」

「はい。兄のりゅうは八年前に高校を中退して以降、ずっとニートだったり、たまにバイトはしてたみたいなんですがそれもほとんど長続きしなかったみたいで。それで二年くらい前かな。それくらいの頃からYouTubeに動画を投稿し始めたらしいんです。最初はなんか政治について語ったりしてたらしいんですけど、でもここ半年くらいは、道路の真ん中で寝転んでみたり、野生の猫にハバネロ食べさせてみたり、墓石の上に乗って叫んでみたりとかしてたみたいで」

「東さん自身は、お兄さまの動画を見たことはないんですか?」

「ああはい。私は見てません。見ようとも思いません。今のは全部母からの情報です。正直、あんな兄なんてできれば関わりたくない。でももし、その『クズ』が『治る』というのだったら、私も気兼ねなく日々を過ごすことができるようになって助かるだろうな、と……」

「なるほど、それは確かにかなりのクズですね」

そのとおりだと思う。言い方はおかしいが、ここまでのことをやっているとあらば、兄はどこに出しても恥ずかしくないクズ中のクズといえた。


しかし、だ。東は一瞬ギョッとしてしまった。琴弾の口から「クズ」という強い単語が出てくることに、いまだに慣れなかった。

「クズの方たちの中には、ご自身で『クズ』を自称されている方も多くいらっしゃいます。わたしが『クズ』という言い方を貫いているのは、そういう方たちに寄り添いたいという思いからです。もちろん、そう言われるのが嫌な方の前では使いません。御自覚のお有りでない方も多いですから」

「なるほど……」

そういうものなのかもしれない。


「一度、お会いしたほうが良さそうですね」

「ええ、それはもちろん」

「お兄さまのご都合の良い日はありますか?」

「ええと、今からって大丈夫でしょうか」

「はい。大丈夫ですよ」

東たち二人はもう誰もいなくなっていた礼拝堂を後にした。

窓から差し込む夕日は、聖母マリア像のもとには届いていなかった。



それから一ヶ月が経った。兄は動画を投稿するのをピタリと止めてしまったようだった。

琴弾の手腕には目を見張るものがあった。

東は理解した。クズの改善には、徹底的に寄り添うことが必要なのだろう。

琴弾は、兄の話を聞き、兄の人生を深掘りし、兄が抱えていた重荷を一つずつ降ろしていった。

政治系の動画を投稿していても一向に再生数が伸びなかった。だから過激な動画に手を出すようになった。すると急激に再生数が回りだすようになった。もう止められなかった。俺は悪くない。こんな動画を見に来る奴らが悪いのだ。


琴弾は肯定した。一度も兄を否定しなかった。徹底的に兄を肯定し続けた。それこそ、あの聖母のような顔で。

それなのに、兄は動画投稿をやめた。

それだけのことか、と思わないでもなかった。兄は、誰かに話したかっただけなのかもしれない。その思いが報われたので、もう過激な動画で鬱屈した思いを晴らすようなこともしなくて済むようになった。そういうことなのだろう。


東は、再び旗上教会に来ていた。

兄のその後を伝えるためでもあったし、気になっていたことを確かめるためでもあった。

兄が動画投稿をやめたことを伝えると、琴弾はこの上ないくらいに嬉しそうな顔をした。

琴弾がここまで感情を表に出す姿は見たことがなかったので、東は思わず胸の鼓動が速まるのを感じた。


「琴弾さん、本当にありがとうございました」

「いえ、わたしもお兄さまが行動を変えてくれて、とても嬉しく思います」

「あの……。ひとつ、聞いてもいいですか」

「はい、なんなりと」

聖母の顔だ。

「琴弾さんは、なぜこんな活動をしているんですか」

報酬を取るでもない。まるっきりの慈善事業だ。何か裏があるのではないかと何度も思ったが、この顔を見るとどうしても、裏があるなどというのは馬鹿げた妄想に思えてしまう。

「……わたしも、誰かに話したかったのかもしれません」


「え?」

「東さん、あなたの周りに手のつけられないほどのクズの人はいらっしゃいますか。お兄さまレベルの」

「いえ、思いつかないですね」

「わたし、クズが大好きなんです。本当に本当に大好き」

東は一瞬、琴弾の発言を飲み込めないでいた。クズが大好き。そう言ったのか。あの聖母が。


「この活動を始めてから、いろんなクズの方に出会いました。一週間に三度、曜日ごとに別々のお相手と不倫されている方。葬式などの場で不謹慎な振る舞いを我慢できない方。人からお金を借りたまま返さずに全く悪びれない方。本当に様々なクズの方にお会いしてきました」

琴弾の目に妖しい輝きが宿る。最初に教会で会ったときに「好奇」のように映ったその瞳の色は、やはり東の幻影ではなかったのだと思い知る。


「面白いのがですね、どんなクズにも人生があって、考えがあって、クズになるに至った理由があるんですよ。ぼんやりと傍から見てたらそれは見えてこないんです。でも、よくよく話を聞いてみると、彼らにも彼らなりの考えがあるんです。彼らなりに論理の通った考えでクズをやっているんです。そうなるに至った人生が潜んでるんです。話を深く聞いているうちにだんだんそのことが明らかになってきます。ねえ。こんなに面白いことってないでしょう。ちゃちな謎解きなんかよりよっぽど面白い」

琴弾の顔が異常に紅潮している。興奮しているのだ。


「どんな人も、話せばそれなりに『クズ』としての一面を持っているんです。聖人君子みたいな人のそんな一面が垣間見えたときなんて本当にたまらない。だからわたし教会って大好きなの。私はまったくクズなんかじゃありませんよ、聖人ですよ、みたいな顔してる人がいいいっぱい」


初めて会ったときの「博愛」の表情が今になって腑に落ちた。もっとも、すべての人間にクズを期待している人が他人を見る感情のことを「博愛」などと呼んでいいかはわからないが。


そしてここに来て、なぜさっき「周りにクズがいないか」を確認されたのかも理解していた。

琴弾はおそらく、東とはもう二度と会うことはないだろうと思っているのだ。だから自分の胸の内をここまで赤裸々にぶちまけるに至った。ぶちまけられる相手をずっと探していたのかもしれない。


「だからわたし、自分のことも大好きなんです」

「琴弾さん自身も、自分のことをクズだと思っているということですか……。あの、そうは見えませんが」

「いえ、クズなんです。わたしはですね。いいですか。東さん。わたしはですね。他人が自分の思い通りに振る舞うことに快感を感じる人間なんです」

「……琴弾さん、もうやめましょう」

「いえ、聞いてください。クズの人ってね、クズの人って周りから理解されたり共感されたことが極端に少ない人が多いんです。だから、さっきみたいに少し寄り添ってあげれば、彼らは簡単にその行動を変えてくれます。クズから脱することができたところで、本人が幸せになれるとは限らないのにね」

わたしもお兄さまが行動を変えてくれて、とても嬉しく思います──。言葉通りの意味ではなかったということだ。

「琴弾さん……」

「東さん、ありがとうございます。そして、すみません。こんな自分語りに付き合わせてしまって」


一通り話し終えて、琴弾の佇まいは「聖母」のそれに戻っていた。

「いえ……なんというか……とりあえず、兄のことは、ありがとうございました」

「さっき申し上げたとおりです。クズの方は周りからの理解が足りないことが多いです。東さんも、もう少しお兄さまに寄り添ってみてはいかがですか」

あんな話を聞かされた後だ。おいそれと「そうですね。そうします」などと答えられる人間が、この世にいるというのか。

その上でも、やはり兄のことを理解したいなどとは到底思えない。兄の気持ちがわかってしまうということは、兄と同じレベルまで落ちることにほかならないからだ。


外はとっぷりと日が暮れていた。

「すみません、わたし、もう帰りますね」

「ああ、はい。今回は本当にありがとうございました」

「東さん」

「はい、なんでしょう」

「わたし、あなたのことも結構好きですよ」

「え? それって……」

何も言わずに微笑んだ琴弾の表情は、あのとき神父や聖歌隊に向けていたものと同じだった。


(了)

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