生暖かい風
朝枝 文彦
一話完結
月夜の小学校。
薄暗闇に響く足音に従って、二つの懐中電灯から伸びた光が、長い廊下の床や引き戸を切っていく。昼間の校内を、明るくしていた子供達の歓声は、星空の彼方に消え去り、五十手前の男が二人、三階の廊下を歩いていた。
鍵束をジャラジャラさせながら先を歩く、用務員の鈴木が、話し始めた。
「いやぁ霊媒師のセンセに来てもろて、ほんま助かりますわ。なんせ宿直のもんが、みぃんなこわがってもうて、困っとったんですわ」
首から大きな数珠をかけた白装束の男、重松が、鋭い目つきのまま、無言で後ろを歩いている。
「ボクもここ来て、まだ浅いんでっけどな、なんやちょっと前に、定年間際の教頭センセが便所でおっきい方してる時に、亡くならはったらしいんですわ。ほんでそっから、そこにユーレイが出るて、みんなゆうてて。ボクもはじめは、何をアホな事を、と思てたんですわ。……先々週までは。あの時もこれぐらいの時間に、見回りでひょいと便所を覗いてみたんです。そしたらなんや、なまあたたか~い風が、ふわぁ~っと吹いてきて、どこからともなく、苦しい~~苦しい~~ゆうて……」
そう言いながら、鈴木は左手を垂らして目を見開き、いつも小学生を怖がらせているお決まりの表情を重松に近づけた。
重松はそれを一瞥すると、眉一つ動かさぬまま前を向いて、答えた。
「なにか、この世に未練があるのでしょうな」
鈴木はつまらなさそうな表情を浮かべながら、言を続けた。
「未練、未練ねぇ。聞いた話では、脳溢血かなんかで、痛いも苦しいも無いうちに、ポックリ逝ってしもたと聞いとるんですがねぇ」
「センセ、ここですわ」
鈴木がスイッチを入れた。
蛍光灯が、2、3回明滅しながら発した高い音が、乾ききった青色のモザイクタイルに反響する。
左手に小便器、右手に洗面台、奥に二つの個室があった。
「あの右の方ですわ……センセ?」
重松は、洗面台の上の、虚空を睨んだまま動かない。
「……なんかありまっか?」
鈴木はその視線の先に、目を凝らした。
その時、一番奥の蛇口のハンドルが独りでに回転して水を吹きだし、どこからともなく生暖かい風が吹いてきて、二人の頬をなでていく。
「センセ! これですわ!」
鈴木が振り返ると、重松は右手で口元を押さえ、真っ青な表情でトイレを飛び出して行く。鈴木も慌てて後を追う。
「センセ! どこ行かはるんですかセンセ!」
二人の慌ただしい足音が遠ざかっていく。トイレでは、吐水の勢いが洗面台の排水能力を超え、こもり始めた水音に混じって、縋り付くような呻き声が、漂っていた。
「……苦しい……苦しい……」
階段の踊り場。
重松が、小学生用の低い手すりの上に腰掛け、壁にもたれて息を切らしている。
鈴木も、両腕を膝に突っ張って、肩で息をしていた。
重松が、幾分かおさまってきた息切れに、言葉をのせて、発した。
「ヨーグルトをお供えしなさい」
「えっ? ヨーグルト?」
「そうです。さきほど、あの幽霊は、洗面台の上によじ登り、水を出して気を惹いて、こちらに訴えかけてきました。彼は生前、ひどい便秘症で、亡くなった時も、ずいぶんと苦しい思いをしていたようです。それが未練となって、この世に残っているのです」
「便秘が未練? はぁ~~そんな事もあるんですなぁ~~」
鈴木はしきりに感心していたが、しばらくすると、勝ち誇ったような笑みを浮かべて重松に言った。
「しっかしなんですな、霊媒師のセンセでも、やっぱりユーレイは怖いものと見える」
「何を言いますか。あんなもの、なにも怖くはありませんよ」
「だぁってセンセ、生暖かい風が吹いてきた時にゃ、飛んで逃げてったじゃありませんか」
重松は、いかにも言いにくそうな表情を浮かべて答えた。
「……我々霊媒師は、幽霊の姿が見えるだけでなく、幽霊から出た臭いも、感じ取れてしまうんです。あの幽霊は、自分の存在を知らせる為、おそらく誰か来る度に、ああやって洗面台によじ登り、人様の顔にお尻を向けて……」
(了)
生暖かい風 朝枝 文彦 @asaeda_humihiko
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