烏の手水

@aiba_todome

第1話 敗北の王者

 時刻は昼さがり。夏の陽気にあぶられたステンレス製の手洗い場が、いつもの決闘場だった。

 蛇口をわずかにひねり、手のひらに水を溜める。漏れることがないよう隙間をふさぎ、そっとビーカーの上に持っていく。

 そこまでやって手に入るのは、ビーカーの底を薄く覆う液体。口の中をかろうじて潤せるだけの水だ。それが優劣を分かつ絶対の尺度だった。


 理科室から取ってきた同じ大きさのビーカーが二つ並ぶ。違いは明らかだ。片方のコップの水面は、他方より目に見えて、小指の爪一つ分は高い。


「いいよっしゃああああ!俺の勝ち!」


「くっそおおああああああああ!」


 絶叫が廊下に響き渡る。勝敗の差はあっても、どちらも魂からの叫びだった。


「なにしてるの?それ」


「ん?手水ちょうずだけど」


 保科山人ほしなやまとは唐突な質問に首をかしげながらも答えた。転校生の水地濡羽みずちぬれはが人ごみから顔をのぞかせている。

 都会から来ただけあってどこか垢抜けている。いやに艷やかな髪がまぶしい。何を塗っているのか山人には見当もつかなかった。

 だが釈然としていないのは濡羽の方も一緒のようで、観戦に集まったクラスメイトたちを珍しそうに眺めている。


「ちょーずってなに?」


「なにって、手水は手水だよ。やったことないのか?」


 山人にとっては信じられないことだった。3才児でも真似事くらいはする。彼にとって手水を知らないなど、車や鉛筆を知らないも同然だった。


「あー、濡羽ちゃん昨日こっちに来たばっかりだから知らないかー。右郷町伝統の勝負だよ。ちょっとしたことはみんなこれで決めるの」


 横から姿子しなこが入ってくる。クラス委員で、物知りで通っている女子だ。


「え、手水ってうちだけなの!?じゃあ余ったケーキ誰が食うかとか、どう決めてんだよ」


「じゃんけんはダメなの?」


 濡羽が首をかしげた。無垢な顔でとんでもないこと言う。


「運じゃん!え、そんなんで納得できるのか?ここ以外みんなそうなの?怖い……」


「そこまでかなあ?」


 予想外に強いリアクションに濡羽は少し引く。しかし保科としては真剣にならざるを得ない。なんなればこの競技は彼のアイデンティティの少なくない部分を支えているのだから。


「まあ保科くんはね。これで食べてるみたいなとこあるから」


「へえ、けっこう強いんだ」


「十 年 無 敗!!」


「そんなことある?」


 普通はありえない。だが事実だ。手で水を汲んだ量を競う、この単純な戦いで、保科山人は無敵だった。小学生のころから、いやそれ以前から、手の大きさが倍ほどある大人とやっても負けなかった。

 缶ジュース、アイス、菓子パン、唐揚げの最後の一個。手に入らなかったものは無い。この右郷町において、物心ついた時から絶対王者であり続けた。


「保科くんはおばあちゃんも強かったからね。三十年無敗だっけ?」


「三十四年だ。うさま祭りで殿堂入り。最強だったよ。俺が生まれる前まではな」


 山人は胸を張る。狭い町だから手水にも番付のようなものがあり、有力な一族もいる。保科家はその中でも山人とその祖母によって約半世紀の間王座を守り、一種の伝説を作っていた。

 とはいえよそ者の濡羽がそんなことに興味があるわけもなく、気にしたのは別の単語だった。


「うさま祭りって、ここのお祭り?」


「そうそう。うさまはこの町の守り神様ね。そこで手水の大会もやるの」


「それ、盛り上がるの?」


 濡羽が疑わしそうに尋ねる。


「一番盛り上がるよ。町中の人が見に来るんだから」


 姿子が自信まんまんに答えた。


「当然俺は不敗!最強だ!」


 何が何でも強調する。もちろん、手水の強さなど部外者どころか町民にとっても大したものではない。あくまで主要な娯楽。余興の一つだ。

 それでも、山人にとっては十年の重みを持つ譲れない力だった。就職やら受験やらの役に立たなくても、自分が最強という真実は盤石のごとく揺るがないのだ。


 だからこそ、濡羽の一言は聞き捨てならなかった。


「じゃあわたしも挑戦してみよっかな」


「何!?」


 人垣がどよめいて波打つ。山人は腰を落とし、謎のおそらくは一子相伝の拳法の構えをとった。授業中に横目で観察する転校生は今、不敵な挑戦者となったのだ。


「そんなに警戒しなくても」


「いいや!油断は無いね!獅子は死して走狗煮らるだ!」


「保科くん混ざってるよそれ」


 姿子が穏やかに突っ込む。


「というかわたしホッシーとやるなんて言ってないけど」


「ホッシー!?敵をあだ名で呼ぶんじゃない!俺の前でこれをやると言ったら俺とやるって意味なんだ!」


 蛇口が二人の間をちょうど二分の一に分割する所まで下がる。思考が透明になり、セミの声が脳内を埋め尽くした。王者は常に真剣だった。


「えっと、手のひらに水をためればいいんだよね?」


「そうそう。水が漏れないように指のつけ根をしっかり閉じて、うん、大丈夫」


 姿子から簡単な指導を受けると、濡羽は腕まくりして蛇口に手をかざす。

 真っ白な二の腕に男子の視線が集まるが、山人が注視するのはその手のひらだ。


 日差しを乱反射して硝子のように輝く水道水が、まっすぐ指の間に落ち、一拍おいてあふれ出した。


 遅い。山人から余裕が消えた。

 油断はなかったが、都会から来たような奴にどれほどの力があるのか。そう疑っていた。

 だがもはや疑問の余地はない。本来一瞬で満杯になるはずの華奢な手。水がこぼれるのが0.5秒ほど遅れていた。山人には分かる。それが彼の、そして右郷町に住まう者たちの力だった。

 濡羽が手をどけると、山人もすかさず水をとる。

 それぞれ綺麗に拭かれたコップに水をそそぎ込むと、やはり不自然に長い間、水位が上がっていく。


 それも一瞬のことにすぎない。最後の一滴が落ちる。互いのコップは、同じ量の水を湛えていた。


「え、同じ?」


「引き分け?マジか」


「計測班!」


 ざわめく群衆を叱りつけるように、姿子が指令を出す。どこに潜んでいたのか、定規を持った小柄な男子生徒が走ってきた。

 目盛りの細かい金属定規を、皆にも見えるようにしてビーカーに当てる。誰もが身を乗り出して数字を読み取ろうとする。


 山人の脚が震えていた。彼と濡羽だけは計測作業を気にしていない。濡羽は単にそこまでやる意味が分からないため。

 山人は、誰よりも水の量を見つめ続けてきた彼は、目分量だけでもミリリットル単位の違いを測れるために。


「保科山人、3.28cm。水地濡羽、3.31cm……。水地濡羽の勝ち!!」


「「うおおおおおおおおおおおおお!!」」


「ば、馬鹿なぁあああアアアアアアアアアアアッッ!!!」


 歓声が上がる。それをつんざく断末魔を発しながら、山人が膝から崩れ落ちた。


「凄え!絶対王者陥落!保科一強時代の終焉だ!」


「歴史を見てる……!あたしら歴史を見てるよ!」


 小さな校舎が震えるほどの騒ぎだった。ワールドカップで日本がゴールを入れたような熱気は、新入りの女子を地球の公転速度で置き去りにする。


「いや、そこまで騒ぐことじゃ」


 畏れさえ含まれた謙遜を、姿子がさえぎる。


「ううん!すごいよ水地ちゃん!保科家はこの50年近く負け無しだったんだよ!?それをいきなり破るなんて」


「どうした!なんの騒ぎだお前ら!もうすぐ授業が始まるんだぞ」


 口やかましいことで有名な教頭が走ってくる。中天の太陽を映す薄い頭を、生徒たちは嫌な顔一つせず迎え入れた。


「先生!手水で保科が負けたんすよ!」


「嘘をつけそんな」


「ほんとですってほら!転校生がやったんですよ!」


「ほ本当にか!校内放送だ!放送委員走れ!今年一番のニュースだぞ!」


「いえっさ!」


 あらゆる音声が遠く聞こえる。立ちくらみが沖の波のように山人の脳を弄んでいた。悔しさで涙が滲んだのは初めてのことだった。



「ちくしょー!」


 捨て台詞も思いつかず、一声残して廊下を走り去る。


「え、待ってホッシーもう授業だよ!?」


 その日は休んだ。

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