朝のアパートにて
冬を迎え入れてよかった。
待ちに待った肌を刺すような寒さに私は心躍った。
「心躍る」など使い古された表現になってしまうのは当たり前で、極寒の中、元彼氏に連れられて30分並んだラーメンを食べたときは「おいしい」になるに決まっている。それと一緒だ。
話は変わるが、最初のデートでラーメンに連れて行くなんて私には理解できなかった。少し慣れてきてからのデートなら理解はできるし、兄がいるのでそういう趣味にもついていける。ただ、初回にラーメン屋に連れて行かれると適当に扱われている気がした。せっかく買った新しいグロスはラーメンの油に流され、お気に入りのオレンジのダッフルコートは脱ぐしかなかった。
金木犀が香った。
窓を開けるといい香りが部屋に広がる。私は金木犀が大好きだ。
首に下げていたボーダー柄のヘアバンドをグイッとおでこまで上げると、狭いワンルームに掃除機をかける。お隣さんに迷惑にならないかなと思いつつ、ちょっと鼻歌混じりで掃除機のスイッチを入れた。
午前10時。掃除を終わらせてコーヒーを入れるのが私の日曜日のルーティーンだ。
毛布と掛け布団は狭いベランダに干してしまったので、ルームソックスを重ねて履いて、エアコンを『中』にした。ここのエアコンは効きがいいので、急速に暖めるためには「中」がちょうどいい。
以前、窓を開けると部屋の外から大音量のイカガワシイ絡み合う音がしてから少し怖かったが、朝のうちはどうやら見ていないらしい。
携帯が鳴った。おもちゃの鍵盤のような音が聞こえた。
膝丈くらいのガラステーブルにマグカップを置くと甲高い音がした。
ディスプレイを覗くと兄からだった。
「サーーーーキーーーーー!予定通り東京駅到着(ニッコリ。」
私の兄は世間で言うところのシスコンという人らしいが、私は兄に大変感謝している。私の親はいわゆる毒親で、実家の山梨の大学に行くように私に迫ったが、私は東京の大学に行きたかった。都会の町には憧れていたが、それよりも私が志望した大学の教授に好きな建築家がいたからだ。どうしてもこの女性建築家から建築を習いたかった。それを素直に親に伝えると恐らく許してはくれない。だから少しは信頼がある兄も一緒に話し合いに出てもらうことにした。
案の上、母と父は一人暮らしにも東京の大学も大反対だった。この日私は出ていく覚悟でリビングのソファーに腰かける親の元へ来たのだ。自室にスーツケースの準備も完了済みだ。父が絶対に許さないと怒鳴り立ち上がろうとしたので、ここで啖呵を切ってやろうと思ったその時、兄が立ち上がった。
「サキがやりたいことになぜ反対なんだ!これからの人生はサキのものだ!家族なら応援しろ!あなた達の所有物じゃない!」
先程まで偉そうにしていた父が狼狽した。
当たり前だ、私でさえ怒鳴る兄など見たことはなかった。その日は両親が引き下がることになった。この日から私への接し方が変わった。母も父も私の受験を応援をしてくれた。もちろん心の底では祝福はしていないだろうが、表面だけでも応援してくれたことは素直にうれしかった。
後日、東京の大学の受験も無事合格。私以上に兄がオイオイ泣いていた。
そして上京初日、駅の複合施設でオレンジのダッフルコートを買った。
コートなんてネイビーかキャメル色だと思っていた。こんな発色の良い服はあるのかとマジマジ見ていたら、はちみつを主食にしていそうな年上のお姉さん(もしかしたら同い年?)にまんまと買わされてしまった。
でも今はこのダッフルコートが大好きだ。今思うと私と大好きな金木犀の色だからだ。
今夜は兄と鍋パーティーだ。兄が家へ訪れるのは2年前引っ越しの手伝いに来てくれて以来になるだろうか。
そういえば引っ越しの時に表札に入れる用に我ながら達筆だと自画自賛した表札を玄関扉につけるのを却下された。隣の野獣のような大学生に襲われたらどうするんだという兄の心配の結果だった。
棲みはじめは本当に夜道やお隣さんが怖く不安でいっぱいだったが、お隣さんは同じ大学に通っているらしく、毎回会釈をしてくれる感じの良い人だった。たまには建築模型に向き合う時間を男性と過ごした方がいいかもなと思ったが、元カレのラーメン事件からあまり期待はしていない。
ただ、もし今度会ったらイカガワシイ動画はヘッドホンで見て欲しいと伝えようと思っている。少し気になったのは、お隣の彼が男友達と部屋で飲んでいたのだろうか、結構大きい声で隣は有村架純似の可愛い女子で最高だと叫んでいた。さすがにベッドの上でクッションに顔をうずめた。これは兄に黙っておこう。
また通知が鳴った。
写真が添付されていた。そこには今どきのツーブロックになった兄の姿があった。
坊主頭の兄しか知らないので自分の兄の写真をなめるように見てしまったが、そのあとすぐに来たメッセージを見て安心した。
「サーキ―!兄だよー!東京駅から兄が迫ってくるよー!猪突猛進!(いのしし」
いつもの兄だった。
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