十、領境の停車場
「あの一つお聞きしても?」
大きなリュックを抱えたおじさんが、私の座席のところを覗きこんでそう言った。
「いいですよ」
「車掌さんがどこに居るかっていうのは」
「ああ、車掌さんでしたら」
私は立ち上がって妻引戸を開けた。
「そこに、たぶん」
時々居ないけれど、後から来て会っていないなら、居るだろう。
「ああ、すみません、ありがとう」
おじさんはそう言ってデッキの方に出た。閉じた妻引戸の向こう側にうっすらと、影が一つ見える。ノックをする音と、車掌さんが返事をする音、扉が開く音、大体全部聞こえた。
どうやらおじさんはさっきの駅で乗ってきたらしい。
あんまり人の話を聞くのも良くないと思って、私は窓を開けてそっちに集中した。
相も変わらず、景色は草原に森が点在しているくらいだ。ただ、列車の進行方向には山が聳えている。多分山脈だろう。横に連なってずっと続いている。学校では、領の中のことしか習わなかった。だから、領を出ると何があるのか、私は知らない。これまでだって、知っていたかと言われたら知らなかったけれど、街で決まっているルール以外は田舎と一緒だった。でも、これから別の領に入る。そうなったら、基本的なルールも違うし、常識も変わる。
――そこからが本当の旅なのかなぁ。
なんとなく、そう思った。
「あの、先ほどはありがとうございました」
さっきのおじさんだ。
「いや、本当はこの列車に乗るつもりじゃあなかったんだけども、どうにも待っていられなくて」
「どこへ行かれるんですか?」
「ああ、まあどこへというわけじゃないんだけどね、私は商売をしてるんだよ。それで、お隣さんのところにも行こうと思ってね」
お隣さんと言うのは、隣の領のことだろう。おじさんは、鞄を床に置いて紐を解いた。
「こういうのを売っているんだ」
それは食器やペンみたいな、木で出来た日用品の類だった。鞄の中には、同じ木で出来ているものが沢山詰められていて、素人目に見ても、一級品だというのがすぐに判った。
「そうだ、今何か必要なものはあるかい?」
「必要なもの?」
「そう、必要なもの。そうだなぁ、例えば、君は髪が長いから、櫛とかどうだろう。それとも、流石に持っているかな」
そう言って鞄の中から出てきたのは、やはり木で出来た手の縦と同じくらいの大きさの櫛だった。
櫛は――
「そういえば持ってないです」
家に居たときは、おばあちゃんが使っているのを一緒に使っていたけれど。
「どうだい? 一つ。本当は金貨一枚とかで売りたいところなんだけど――職人が一つ一つ手作業で作っているからね――銀貨七枚くらいにまけるよ」
銀貨七枚ということは――あの髪ゴムより安い。
この間雨の降る地域を通ったときも髪が大変なことになっていたし、まだお金にも余裕があるから、一つくらい持っておいてもいいかもしれない。
「一つ、いただいでもいいですか?」
「お、お買い上げありがとう」
私は財布の中から金貨を一枚、おじさんに渡した。
「じゃあ、おつりが銀貨三枚ね」
「ありがとうございます」
受け取って、さっそく髪を梳かしてみる。髪を手入れするのなんて久しぶりだった。変に引っかかることも無い。
「どうだい?」
「いい感じです」
「それはよかった。こいつらはね、僕の故郷で作ってる物なんだよ。だからね」
沢山売りたいんだ、とおじさんは言った。
「ところで君はどこに行くんだい?」
「ウトピアです」
「え? ウトピアって、あのウトピアかい?」
「ええ、そのウトピアです」
私はパスを出して、おじさんに見せた。
「ほ、本当にウトピアに行くのか…………すごいな」
そういえば、車掌さんも検札の時に随分驚いていた。
「両親がウトピアに住んでるみたいなんです。会ったことがなくて」
「ご両親がか。それは、大変だな……」
妻引戸が開いて、車掌さんが客室に入った。
「おや、お二人ともそこにいらっしゃいましたか。間もなくモンスとの領境の停車場でして、入領に際して手続きがありますのでご留意ください。今の入領税は金貨二枚みたいです」
窓から前の方を見ると、いつの間にか大きな壁が行く手を阻んでいた。芸術的――だったあの街の周りを取り囲んでいた壁よりも高くて、多分分厚い。恐らく領の境にずっと伸びているのだろう。
壁に空いた小さな孔の中に、列車は減速しながら進入した。すぐに下り勾配になり、地下に入ったらしい。
「モンス領がどのようなところかはご存知かな?」
「いえ、全然」
「パトリア領はその多くが平地だったが、ここを境にどんどん山が多くなる。登ったり降りたり、列車も大変だろうね」
おじさんはそう言って窓の外を見た。
孔壁は切り出した石で出来ているように見える。一体いつからこの壁があるのかは分からないけれど、石の感じを見る限りは相当古そうだった。
一度左右に大きく揺れてから、列車は地上に出ることなく停車した。停車場と言うだけあって、プラットホーム上には何もなく殺風景だった。奥には金属で出来た扉が三つ並んでいて、何かプレートが貼ってあるみたいだけれど、遠すぎて何が書かれているかまでは分からない。
「五番列車の乗客はそのまま一度列車を降りなさい」
ホームにそんな声が響いた。
「これから手続きです。暫しご辛抱ください。お金以外は特に何も持たなくて大丈夫ですよ」
車掌さんがそう言うので、私は財布だけを持って列車を降りた。おじさんは、鞄を持ってそのまま降りるらしい。
奥の三つある真ん中の扉が開いて、濃緑の制服を来た武装兵が、男女それぞれ三人ずつ出てきて並んだ。
「乗務員に問う。乗客は二名で相違ないな?」
「はい」
車掌さんが、普段のとは全然違う無機質な声で言った。確か、一番最初に検札をすると言ったときの声があんな感じだっただろうか。
「では、そこの男性は私に」
「あなたは私に付いてきてください」
言われた通り、女性の兵士さんについて行く。
近づいてみると、右側の扉には女性受付所、真ん中の扉には兵士待合室と書かれていた。左側の扉の文字は読めなかったけれど、多分男性受付所だろう。
女性受付所に入ると、紙とペンを渡された。壁は孔と同じ石材で出来ていて、これも相当古いように見える。天井から電球が裸で吊るされていて、そのせいか、或いは窓が無いせいかもしれないけれど、酷く無機質な印象を受けた。気温的には寒くないのに、どこか寒い感じがするのだ。家具は木製の机と、向かい合うように同じ木の丸椅子が置いてあるくらいで、他には何も無かった。
「そこに座って構いません。これに書けることを書いてください。どうしても書けない事項がある場合はその旨を伝えてください」
兵士さんがそう言って、自分は奥にある椅子に座った。
私も座って、ペンを走らせる。名前、性別、年齢、出身領、入領の目的、それから武器の所持など、様々に項目分けされた書類に、私はすべて書きこんだ。
「ご協力ありがとうございます。次は身体検査になります。それと、書類の申請に基づいて列車にあるお荷物の検査をさせていださきますが、よろしいですね?」
私は頷く。
「では、身体検査に移らせていただきます」
身体検査が終わってからは、領の大まかな法律に関することを聞いて待っていた。曰く、列車の中の荷物をすべて検めているらしい。貨車に積まれた弾丸まで見るというのだから、時間もかかるのだろう。
「あとはそうですね、モンスでは、襲われたら迷わずに撃ってください」
兵士さんはそう言って、自分のらしいライフルを壁に向けて構えた。
「山が多いこの領は、はっきり言ってしまえばパトリアよりも盗賊たちが活発です。街によっては、その中に紛れ込んでいることもあります。躊躇しないで、襲われたら撃ってくださいね」
私は黙ってライフルを見ていた。兵士さんは、暫くしてからライフルを下ろした。
「さて、そろそろ荷物検査の方も終わると思いますが、何か質問はありますか?」
「……特には」
「わかりました」
兵士さんがそう言ったところで、丁度金属の扉がドンドンドンと叩かれた。
「荷物検査が終わった。お前は速やかに列車に戻りなさい」
「気を付けてね」
受付をしてくれた女性の兵士さんは、待合所を出る間際に私にそう言った。
「そんなはずはありませんよ!」
おじさんの声が構内に響く。
「しかしだな、現にこのパトリアでも違法なこの薬物がお前の荷物から出てきているんだぞ?」
白い粉の入った小さな袋を手に持った男性の兵士たちは、どこか厭な笑いを口元に湛えていた。
「でも、そんなもの私は入れていない!」
「入れていないのに入っているわけがないだろう? お前が入れたという以外には考えられないな。――どうしたそこの旅人、早く列車に戻らんか」
私が見ていることに気づいたのか、兵士たちはとても厭そうな顔をしていた。
私は、いつもの一番前の扉から列車に乗り込んだ。車掌さんが、車掌室の扉を開けたまま手帳を書いていて、私が入ってきたのに気が付くと顔を上げた。
「ルナさん、お帰りなさい。大丈夫でした?」
「はい、私は。でも、商人のおじさんが」
「またですか…………ここ、どうも荷物検査で必ずと言っていいほど乗客の誰か一人が違法薬物の所持で逮捕されるんですよ。それも、大抵がお金を持った商人なんかでして――」
車掌さんは手帳を閉じて立ち上がり、私の前を歩いて客室に入り私の席の向かいに座った。
「どうも管理局も怪しいと睨んでるみたいなんですがね」
プラットホームの上では、おじさんと兵士たちが猶も話し合っていた。
「でもなんだか、厭な感じですね」
「ええ、あまり大きな声では言えませんがね」
でも、証拠がああして出てしまった以上は、どうしようもないのだろうか。何か、物を見て誰のものなのかを簡単に鑑定できる技術でもあれば、どうにかなるのかもしれないけれど。
私の目には、あの人が薬を売ったりしているようには映らなかった。
――でも、そんなものなのだろうか。
どうやら話にピリオドが打たれたらしく、おじさんは肩を落としながらゆっくりと列車の方に歩いてきた。その目に、さっき私に櫛を売ってくれたときの光は無かった。
ゆっくりと妻引戸が開いて、おじさんが足取り重く私たちの許へ歩いてくる。
「大変ご迷惑をおかけしますが、私の荷物を外へ出すのを手伝っていただけますか」
「ええ、勿論です。ではルナさん、行ってきますね」
「私も行きます」
「え?」
「私も、手伝います」
私はそう言って、銃を持って車掌さんと一緒に立ち上がった。
「……分かりました」
貨車に積んであったおじさんの荷物は、三人で運んで二、三分で運び出した。
それからすぐに、おじさんは悲しそうな顔をして、列車を降りた。
「これでいいんですか?」
その背中に、私は声を掛ける。
「いいんだ。もう、どうしようも無いさ。あれが私のじゃない証拠なんて、どこにもありはしないんだからね――」
おじさんの拳は、固く握り込まれていた。
「――櫛、買ってくれてありがとう。僕の、故郷の職人が、大切に作ったんだ。大切に使っておくれ。そして――そして、君にもいつか、こんな仕打ちを受けることがあるかもしれない。気を付けるんだよ」
そうしておじさんは、ゆっくりと前に歩き出した。ホームと扉のある壁の間で、兵士たちがまた厭な笑い方をしていた。
「きっと、ご両親に会うんだよ」
本当に小さな声で、おじさんはそう言った。私は、何も言えなかった。
おじさんを一人ホームに残して、列車は静かに走り出す。蒸気を吐き出す音以外には、何も聞こえない。
列車はすぐに小さな孔に戻り、徐々に坂を上る。果たして、列車は地上に出る。
「あんな酷いことって……」
あるんですよ、と車掌さんは言った。
「ルナさんも、気を付けてください。いつ何時、誰が貴女を陥れようとしているか、分かりませんから」
「厭な世の中ですね」
「本当に。――さあ、そろそろご飯でも食べましょう」
私は扉を閉めた。扉の窓から少しだけ見える景色は、さっきまでとは全然違った。
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