八、雨降る街の駅
「そっち持ってもらっていいですか?」
私は車掌さんから粘着テープの端を受け取って、妻引戸の硝子があった部分に張り付けた。
「新しいのを持ってきてくれればいいのにねぇ」
座席に座って胡坐をかいていたソフィアさんが、ぽつりと呟いた。
「そりゃあそうですけどねぇ、イテ、言っても仕方ないですよ。…………よし、これで硝子は大丈夫ですね」
「お客を乗せた列車としてどうなんだ」
「ルナさんですし大丈夫でしょう」
「なんですかそれ」
窓の外に見える空は、灰色の雲が覆っていた。もうすぐ、雨でも降るのだろう。景色は然程変わりなく、草原のところどころに森があるようなものだけれど。
「雨、降りそうですね」
私は自分の席に座りながら言った。
「ああ、もうすぐ、年がら年中ず―――っと雨が降ってる地域ですからね」
「ジメジメしてて私は嫌いだなぁ」
雨は――髪の毛がガサガサになるから嫌いだ。
「あ、そんなこと言ってる間に」
雨がぽつりぽつりと降り始める。地面の草は、いつの間にか泥に変わっていた。その地面は既に雨に濡らされているから、雨が降り始めるというよりは、雨の降っているエリアに入った、というのが近いのかもしれない。
「んあ?」
ソフィアさんが、急に天井を見上げた。
「あ、雨漏りだ」
「へ?」
確かに、天井には雨の雫が今にも落ちようとしていた。
「これは、なんというか、あの」
「さっきのアレで歪んじゃったんですかね」
ソフィアさんは立ち上がって、私が座っている側の、一つ後の座席に座った。
「ダメだな、この列車」
「次の駅で壊れた車両を全部取り替える手はずだったんですがねぇ……どうしましょう」
車掌さんはそう言って、雫を手で受け止めた。
「とりあえずここも応急処置をしましょうか」
「水にテープじゃダメだろ」
すぐ剥がれちゃいますよ、と私は言った。でも、だからと言って他に何か手があるのかと言えば、無い。バケツを座席に置いておくくらいしか方法も無いような気がする。
ソフィアさんと二人で、車掌さんを見る。
「え? 私がバケツ持ってくるんですか? 怪我人ですよあたしゃあ」
「冗談ですよ。私が行ってきます」
そう言って立ち上がって――
「ふぇ⁉」
身体が一気に列車前側に持っていかれて、転んだ。続けて、汽笛が鳴る。
ポッポッポッポッポ―――。
「ルナ、大丈夫……?」
「わ、私は大丈夫です。でもこれは」
列車は今までに無いほど急に速度を落としていく。
「非常事態発生の汽笛合図でして、これは」
車掌さんはそう言って車掌室に行こうとして、そして転んだ。
「わたぁ!」
止まるときの衝撃で、前に飛ばされたらしい。肩を押さえながら立ち上がって、車掌さんは車掌室の戸を開けた。
「どうしました?」
無線機のマイクを手に、車掌さんがそう問いかける。
「それが、どうやら機関車の方の損傷してたみたいで、どっかから蒸気が漏れ始めたんですよ」
これは、機関助士さんの声だ。
「ど、どうするんです?」
「どうするもこうするも、救援を呼ぶしかないでしょう」
「またか……」
車掌さんは大きなため息を吐いて、無線機の捻りを回した。
「こちら五番列車車掌です、今度は雨の街の駅手前二百メートルくらいで機関車故障のため緊急停止しました。救援お願いします。ついでに言っておくと客車も雨漏りしてますどうぞ」
「こちらパトリア管理局輸送司令です、状況了解しました。直ちに向かわせます。客車はどうしようもないので次の正規停車駅でやります、輸送司令終話します」
もう一度、車掌さんが深い溜息を吐いた。
「雨の街って、すぐ近くなんですか?」
私は車掌室を覗きながらそう言った。車掌さんが路線図を出して見せてくれる。
「今ここです。で、駅がここ」
指が置かれた場所には、特に印などは付いていなかった。
「降りれますか?」
「降りても何にもないですが……まあ、三時間くらいは暇ですしいいんじゃないですかねぇ。どうせ、この辺りは長距離列車以外は走らないわけで。駅まで三百メートル徒歩ですが、それでもいいなら」
少しだけ考えて、私は首を縦に振った。
傘を差して列車を降りる。雨はさほど強くも無く、けれどしっかりと降っていた。雨が傘を叩く音が、どこか心地よい。
石が盛られた線路の上を、ザクザクと音を鳴らしながらゆっくりと歩く。石のお陰で水が溜まることも無く、案外歩きやすかった。
線路の先の左側に、今まで止まった駅のものよりも幾分か小さいプラットホームが在る。これだけの雨だと言うのに屋根も無い。石が積まれただけにも見えるホームの端には、同じ石で高さを変えただけの階段があった。
作られてからずっと直していないのか、近くで見ると石で出来たホームのあちこちが欠けてしまっていた。足を乗せて少し体重をかけて崩れないのを確認してから、私はプラットホームに上った。
駅舎も、一応はある。あるけれど、天井のあちこちから水が垂れて床にはぽつぽつと穴があいていた。中には誰も居ない。改札は無く、白く濁った窓口が一つあるだけだった。
建物を出ても、様子は同じようなものだった。人の往来は無く、どの建物もまるで何十年と放置されたかのように見える。ただ、駅の右側には、男の子が一人ぽつんと立っていた。
「どうしたの?」
私は、男の子に声を掛けた。男の子は、少し間があってから、こっちを向いた。
「お母さんを待ってるの」
抑揚のない声でそう言ったら、男の子はまた前を向いた。駅前にはやはり誰も居ない。
「お姉ちゃんは、こんなところで何してるの」
男の子は前を向いたまま、また抑揚のない声で言った。
「乗ってた列車が壊れちゃったの。だから、街を見ようと思って」
「こんなところ、見たって何もないよ」
「そんなことないよ。ここじゃないと、この景色は見れないし」
景色を見るたびに旅をしているわけではないけれど。
「お母さん、来るかな」
「きっと来るよ」
「お姉ちゃんのお母さん、どんな人」
――私のお母さんは。
「わかんない」
どんな人なのだろう。
「自分のお母さんなのに、どんな人かわからないの」
「うん。会ったことないから」
少なくとも、私の記憶の中では。お母さんが私を産んでくれたのだから、会ってないはずはないのだけれど。
男の子は、暫く何も言わなかった。雨は今も、街全体を叩いている。
「お母さんね、列車に乗って男の人とどっか行ったの。すぐに帰ってくるからって。でもね、全然戻ってこないんだよ。ひどいよね」
「ひどいのかな」
「ひどいよ。お母さんのこと信じて僕は待ってるのに、全然帰ってこないんだ」
それは。
「ひどいね」
お母さんだから、と言うのではない。
髪の毛は、湿気でぐしゃぐしゃになっていた。絡んで、指が通りずらい。
「ずっと待ってるのに」
男の子の声は雨に消えた。
大きな機関車が、駅を通過する。それからすぐに、私が乗る列車を牽いて、その機関車は駅に戻ってきた。汽笛が短く鳴らされる。帰ってこいという合図なのだろう。
「じゃあね」
私は男の子にそう言った。男の子は、こっちを見ないで、やっぱり前を向いたまま、同じようにじゃあねと言った。
傘を畳みながら、一番前の客車に乗り込む。
「ルナさん、お帰りなさい。タオル、どうぞ。傘もお預かりします」
「……ありがとうございます」
「どうかしたんですか?」
私は席に座って、靴と靴下を脱いで濡れた足を拭いた。
「男の子が、お母さんを待ってたんです」
「へ?」
「まだ小さい、十歳行かないくらいの男の子が、お母さんを」
いつもよりも幾らか低い汽笛が鳴って、列車がガタンと揺れ動き出す。
「それは、おかしいなぁ」
車掌さんは不思議そうに言った。
「さっき見せた路線図、覚えてますか?」
「え? はい」
確か、車掌さんは印が無いところを指していたけれど。
「あの駅、もう四十年も前に廃止されてまして」
「でも、お母さんは列車に乗ってどこかへ行ったって」
「それがその、あの街はもう誰も住んでいないはずなんですよ。駅が廃止されたのは、あそこに住む人みんなが一斉に雨の降らない別の土地に移住したからなんでしてその」
じゃあ、あの子は。
「誰なんだろう」
「さあ、私にゃさっぱり」
床にバケツが一つ置いてあった。揺れる水面に、屋根から一滴雨水が落ちた。
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