第8話 弟

 状況が全く飲み込めない。こんな夜更けにトリフォンは何をやっているんだ? まさか……


「何ですか? その目は。可愛い弟がいかがわしい事でもやっていると思ったんですか? 最低ですね、兄様……格好からして最低ですけど……まずは服を。正直、目のやり場に困ります」


「ん? ああ、そうだな。裸でいることに慣れて、気付かなかった」

「そんなことに慣れないでくださいよ!!」


「いや、意外とだな……」


 トリフォンの冷たい視線を感じたせいか、寒さのせいか身震いが止まらなかった。続きを言うのはやめよう……。


 用意してくれていた服に袖を通した。じんわりと暖かさを感じる。服とはこれほど有り難いものだと初めて気付いた。


 それに民が着るような普通の服を用意してくれたのは助かる。逃げるのに、これなら目立たないはずだ。


「よく分かっているな」


「ええ。ミーチャ姉様のアドバイスですから」


 ミーチャ姫か……さっきのことを思い出すと、一気に暗くなる。今頃、勝手に去った僕に失望しているだろう。


 そんな気持ちはトリフォンには届かなかった。ずっと、笑顔のままだ。こいつは……いつも笑顔だな。でも、その笑顔がこんなにも嬉しいだなんてな。


「兄様はこれからどちらに?」


「その前に。なぜ、ここに来ると思ったんだ?」


 どう考えても可怪しい。普通は国境を超えると思っているはずだ。ここで待っていて、すれ違っていたら、どうするつもりだったのだ?


「ああ、その事ですか。これもミーチャ姉様からのアドバイスですよ。きっと国境の関所を見たら、山越えを考えるはず。その時は必ず初代様の墓所から行くだろう、と。その通りになりましたね」


 策士か⁉ それとも預言者⁉ ミーチャは前にこう言っていた。


「ロスティのことなら、何でも知っているんですからね」


 当時はまさかと鼻で笑ったものだが、まさか、本当だったのか!? いや、まさかな。


「そうだな。まぁ、偶然とは言え、公国を離れる前にトリフォンに会えて良かった」


「うん。本当にそうですね」


 これで思い残すことは……ない。ミーチャ姫、それに偶然だがトリフォンとも別れを告げることが出来たのだ。


「これから、この山を超えて、王国に向かうつもりだ。そこでやり直す。そして、必ず戻ってくるつもりだ。タラスとちちう……いや、フェーイ公主に復讐をするために」


「兄様……」


 個人が公国に喧嘩をふっかけるなんて、狂っていると思われるだろうか? 思われても構わない。


「失望したか? こんな兄で」


「いいえ!! 兄様らしいというか、誇らしくすら感じます。必ず戻ってきてくださいね。微力ながら、お手伝いを」


 トリフォンなら言い出すような気もしたが、僕は首を縦に振るわけにはいかなかった。

「それはダメだ!! トリフォンはいずれ、この国を引っ張る存在になる。こんな復讐に加担しない方がいい。それよりも母上を守ってやってくれ。あの人にはお前しかいないのだから」


「分かっています。実は母上から預かり物があるんです」


 母上が? 僕にとってあまり記憶はない。そう、母上はいつでもトリフォンの側にいた。


 そんなことを考えていると、トリフォンは重そうな袋をカバンから取り出し、手渡してきた。


 中を覗くと、中のものが月明かりに照らされて輝き放った。金貨だ。それも生半可な量ではない。


「これは?」


「金貨ですよ。兄様は初めて見るんですか?」


 こんな時くらいはふざけないでほしいものだが……何も言えないな。トリフォンには。


「そんな訳、無いだろ?」


「いやだな。そんなに怒らないでくださいよ。これは母上が実家から預かったお金みたいですよ。だから公家の物ではないから兄様が持って行っても大丈夫だろうと」


 もうそこまで情報を把握しているということか。フェーイ公主が漏らしたのか? 最低だな。


「母上は僕のことを失望したのではないのか?」


「ええ。失望していました。けれど、こうも言っていましたよ。『それでも私がお腹を痛めた子なんだ』、と。この金貨は母上が出来る唯一の事だとも言っていまし……って兄様? 泣いているんですか?」


 僕は気づかぬ間に泣いていたようだ。こんな境遇になっても母上は僕を見捨てなかった。それだけでも嬉しかった。涙を拭い、トリフォンの手を握った。


「僕の分まで母上を頼む」


「もちろんですよ!! 兄様」


 これでトリフォントとは本当の別れは済んだ。思い残す事は何もない。あとは復讐のために力を付けるだけだ。

 

 山の方に視線を送った。

 

 これより、僕は氏素性もないただのロスティになる。かたや公国の王子トリフォンだ。身分が随分と違うようになってしまったな。


「行ってくる。さらばだ。トリフォン」


 山の方に向かおうとするとトリフォンが呼び止めてきた。折角、踏ん切りをつけて去ろうとしたのに……。


「なんだ?」


「いや、言い忘れていたことが。手紙をくださいね。こっちで連絡の方法を作りますから」


 なるほど。それは今、言っておかねばならないことだ。流石だな、我が弟よ。


「ああ。分かった。向こうで落ち着いたら、手紙を送るよ」


「はい。兄様」


 僕は再び、山に向かって進もうとした。


「兄様、ちょっと」


「トリフォン。ちょっと遊んでないか?」


 全く緊張感の欠片もないやつだな。こいつが公主となってくれれば、僕もここまで追い詰められることはなかっただろう。


「えへへ。バレました? でも、これが最後です。もう一人、連れて行って欲しい人がいるんです」

 

 その言葉に首をかしげた。これから逃避行をしようとしている者に付いてくる物好きなんているのか? もしかしてトリフォンが用意した護衛とか?


「姉様……こっちに来てください」


 姉様? トリフォンが姉様と呼ぶのは一人しかいない。しかし、ここにいる訳がない。


 やってくる影に僕は目を見開いた。夢でも見ているのか? それとも幻か?


「ロスティ!!」


 そこには月夜に照らされた美女が立っていた。ミーチャだ。

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