第17話 王子の来訪
アルキバによる無断の開通工事の後。
時間はあっという間に過ぎて、春の聖誕祭がやって来た。
「ねぇもういいわよ、髪のお手入れは」
「何を仰いますか!この後爪も磨かせて頂きますからね、えぇもちろん!トーマ!お嬢様の新しいブーツを」
「はい」
私はふぁあ、とうんざりした顔で欠伸を漏らした。
鏡に映る自分の可愛げのなさにげんなりするが、鶏が鳴く時間より早くに起こされ、小一時間は鏡の前に座らされて髪を梳られているのだから無理もないだろう。
聖誕祭でおめかしするのは貴族令嬢としては間違っていないけれど、今年はいつにも増して、ソフィアの気合いの入りっぷりが尋常じゃない。ドレスもあれがいいこれがいいと一向に決まらないし、香油はどれだのブーツがどうだのと、面倒くさいことばかり言って。
いい加減にしてくれと思いつつ、はしゃぐソフィアを咎める気にはならないのは、何だかんだと聖誕祭は私にとっても楽しい日だからだ。ソフィアの手料理も美味しいし、屋敷の中に私を怯えた目で見る人もいないし。
(……これで死亡フラグがやってこなければねぇ)
手紙によれば、アーサーの到着は正午だ。
それまでに出迎えの準備を整えておかなくてはならないというのに、一向に終わる気配のない身繕いに溜め息が出る。
死亡フラグこと婚約者との付き合いは、今後もこうした形でマギカメイア入学前にも幾度か起こるものなのだろう。
鏡に写る、十歳になった自分──ヴァイオレット・クインズヴェリの姿を眺めながら染々思った。面倒なことこの上ないが、こればかりは仕方ないことだ。
死亡フラグだの面倒だのと脳内では散々言っているが、別にアーサーそのものは悪い人間じゃない。
手紙のやり取り限定とはいえ、三年も交友関係を続けていればわかる。アーサー・ルクレティウス・ユグドラシルという少年は、聡明で快活、妹思いの実に気持ちの良い、人間的好意を抱かずにはいられない少年である。
そもそも、『ユグハー』のゲーム本編をプレイした私には、そんなことは十分すぎるほどわかっているのだ。わざわざ大事にしている妹姫と離れてまで聖誕祭をこっちで過ごすというのも、婚約者である私と仲良くしていこうという思いがあってのことだろう。文通してたなんて設定は聞いたことないけど、原作のヴァイオレットも、こうやってアーサーに優しく接されるうちに好意を持ってしまったんだろうか。家族につまはじきにされ、独りぼっちの“ヴァイオレット”に、彼の博愛的な優しさはどれほど染みたことだろう。いや、持ってしまったっていうか、れっきとした婚約者なんだから、好きになるのは全然悪いことじゃないんだけどね。
──しかしながらである。
このゲームの世界において、ヒロインの魅力というのはどうあがいても絶対的なものなのだ。
これもまた、『ユグハー』本編プレイ済の私には重々わかっていることである。だって私がヒロイン目線でプレイしてたんだもんさ。そりゃ可愛いよ。会話の選択肢は私が選んでたけど、普通にめっちゃいい子だったもん。可憐で素直で素朴な優しさがあって、そのうえ聖女の生まれ変わりだよ。私みたいな闇の魔力があって打算的なことばっか考えてる悪役令嬢には勝てないわよ、勝つ気もないけど。
死という己の運命には立ち向かえても、他人の心は変えられない。
出会ってしまえば、アーサーもトーマもあっという間にヒロインの虜になるのは目に見えている。それはゲームのストーリー上、仕方のないことだ。そしてそうなった時、私に出来るのは彼ら彼女らの邪魔をしないように息を潜めていることだけ。
どこにあるかわからない死亡フラグに引っ掛からないよう、目立たず慎ましく、いつか向こうが「真実愛する人が出来たから婚約を解消してくれ」と頼んでくるまで、お互いに程良い関係を保って生きていければいい。
こっちに落ち度がなければ、何なら幾らか慰謝料こと解決金を頂けるかもしれない。クインズヴェリ家の名誉が貶められることをお父様は許さないだろうけど、不名誉は私が全て引き受けて、勘当という形で実家と縁を切ればそれで万事解決だ。家門に傷はつかないし、私は私で、自由に生きていける。
だから運命のその日までには、一人でも生きていける力を、私は何としてでも手に入れていなければならないのだ。
(──そうよ、私は幸せをこの手で掴むのよ!)
ぐっと拳を握ると、ソフィアが「どうかされました?」と不思議そうな顔をした。意気込みの表れだから気にしないでちょうだい。
寵愛も特別な力も幸運も、無条件に与えられると信じて生きていいのは物語のヒロインだけだ。
悪役令嬢として、忌み嫌われる闇の力を持った毒物のような存在として、この世界で、ヴァイオレット・クインズヴェリとして幸せに人生を送ろうと思うなら。
「ヴァイオレット様、ブーツを……」
そう言って、私の足にブーツを履かせようとしてくれるトーマの、黒い犬耳が覗く頭を眺めながら思う。
何の因果か手違いか――というか概ね私の暴走のせいなんだけれど……悪役令嬢である私の所に転がり込んできた彼もそうだ。今やすっかり家族の一員になったトーマ。ゲームの内容を知る“私”という存在が生まれた今、正直、ゲームシナリオがこの先どれだけの強制力を発揮するかは定かじゃない。それでも作中での私のポジションを考えれば、彼に殺される未来だって、消えて無くなったという保証はなかった。健気に慕ってくれる彼には申し訳ない話だけど、命がかかっている以上は呑気なことも言ってられない。
私が苛めなくたって、もし万が一、私の闇の魔力が暴走してヒロインに危害を加えるような状況になったら?
私とヒロイン、どちらかしか助けられないような状況になったらどうなるの?
いざという時、選ばれるのは私じゃないのだと、重々承知しておかなければ。
「ヴァイオレット様?」
「ううん、ありがとうトーマ」
遠いようですぐにやって来るであろう未来。
ヒロインの選ぶルートがどれであるかに関わらず、もしトーマがヒロインの側にいたいと思うなら、その時は笑って送り出してあげたかった。
弟のように可愛がりつつ、絆されすぎないようにと思ってきたのに、既にちょっぴりしょっぱい思いがしているのは内緒だ。
──なんて、ちょっとシリアスに物思いに耽ってみたところで、現実はわりと滑稽だったりする。たとえばこんな具合に。
「ヴァイオレット!」
馬車から降りるなり、ぺかー、と後光が差しそうな笑顔で私に手を振るアーサー。こっちの心労も悩みも知らずに元気一杯って感じねこの王子様。今日はちゃんと護衛騎士を連れているようで何よりだわ。
もちろんまだまだ子どもだけれども、夏草の季節には十歳になる予定のこの王子様は、ほんの少しだけ幼さが抜けて少年らしくなっていた。背もずいぶん伸びて、三年前は私と同じくらいだった目線が少しだけ高くなっている。
「遠いところお疲れ様でございました、アーサー様」
「そうでもなかったな。ヴァイオレットのことを考えてたらあっという間だったよ」
「まぁアーサー様ったら」
はい、ありがとうございます。
相変わらず子供らしくないというか、輝かしい王子様っぷりだことで。振り向かずとも背後のトーマが微妙な表情になってるのがわかるし、ロマンス小説みたいな台詞にソフィアが感動してるのがわかる。
私がニッコリ笑顔の仮面をつけて対応すると、アーサーはちょっとだけ気まずげな顔になってたじろいだ。
「ごめん、ヴァイオレットはこういうの嫌いだったっけ?」
「こういうのとは?」
「ロマンス小説みたいな歯の浮くような台詞」
それが言えちゃう辺りが腹黒だっていうのよこの王子様は。
ゲームだともう王子様っぷりに隙がなかったから、ナチュラルボーン天然タラシなのかと思ってたけど、つまり意識的にやってるってことなのよねぇこれを。ゲームのアーサーと違って相手の反応が悪いと仮面が剥がれる辺り、まだ十歳にもならない彼の詰めの甘さが窺えるというか何というか。
それでも私の貴族令嬢として鍛え上げられた、対貴族対応用のパーフェクト外面スマイルの実態を見破ったのは素直にスゴい。そうだった、猫かぶりはお互い様なんだったわ。
素直さのお返しにというわけではないけれど、こっちも少しだけ素直に笑い返す。笑いかけると、ちょっとだけアーサーが目を見開いたのが不思議だった。
「……別に嫌いというわけではないですが、そう簡単に言われては安っぽく聞こえてしまいますわ」
そういえば、アーサーは毎度手紙に『愛を込めて』と綴ってくれるけれど、私は一回もその手の文句は使ったことがない。こっちの感覚ではその方が変なのかも。
好きとか愛してるとか、あまり大っぴらに言う気がしないのは私が前世現代日本人だからかしら。
言いながら私が肩を竦めると、アーサーは少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「そっか、気を付ける。えーと、花束は受け取ってくれる?」
「花束?」
「うん、再会を祝して」
ニコッという笑顔と共に、どこに隠していたのか、アーサーがヴァイオレットの花束を私に差し出す。
もう記憶も曖昧だけれど、王都で別れたときに貰ったものとよく似通った造りの花束だった。……ちょっと待ってアーサー、照れてるってことはこれは素なの?バラじゃないだけマシだけど、前世日本人には出会い頭の花束も結構ハードル高いわよ。
しかしここでそんなもの出されては、もちろん受け取らないわけにもいかない。
「……ありがたく頂きます」
恐るべし、王子様パワー。
テオドラが書斎を通って屋敷へやって来たのは、夕食時の少し前だった。
尖っている耳が見えないよう髪を下ろして、いつもの服装とは少し異なる趣の暗色のドレスを着ている。主の服装と同じで少し型は古いけれど、シックなドレスはテオドラの黒い髪によく似合っていた。
私の友人だと言えば、ソフィアは案の定何も疑問に思わなかったらしく、テオドラを暖かく団欒の中に迎え入れてくれた。というかむしろ私にトーマ以外の友人が出来たということに感動していたっぽい。失礼ね私にも友人の一人や二人や三人、…………今はいないけど作ろうと思えば作れるわよ。ほんとよ。
挨拶のつもりか何なのか、アーサーが「可憐な方ですね」なんて話しかけてテオドラをビビり散らかせていたのは、アルキバには内緒にしておいた方がいいのだろう、たぶん。どういう反応するかわからないし。
「何なのあのキラキラした人間は……!?」
「アーサー様よ。話したでしょ、私の婚約者」
男の子にそういう声のかけられ方をしたことがないらしい、テオドラはアーサーから逃げまくっていたけれど、照れているわけではないらしかった。どっちかっていうと初めて見るものを警戒する猫みたい。コウモリだけど。
「……軟弱」
「ちょっと何よ!」
トーマがぼそっと呟いたのにテオドラが噛みつく。
どうでもいいけど私にしがみつかないでちょうだい、貴方の爪尖ってて地味に痛いんだから。
夕食までの時間を寛いで過ごすことになった談話室、私達がいつもの通りわちゃわちゃしているのが気になったのか、アーサーが輪に入ろうと寄ってくる。
トーマと言い争っていたテオドラが、アーサーを警戒して今度はトーマの背後に隠れた。普通に失礼だけど、器が大きいのか何なのか、アーサーに特に気にした様子はない。「ヴァイオレットの周りは賑やかだね」なんて言いながら、相変わらず子供らしからぬ大人びた表情で微笑んでいる。その台詞にどこかしみじみとしたものを感じたというか、まるで他人事のような雰囲気を感じて私は首を傾げた。
「そうでしょうか?アーサー様の所だってそうでしょう。マリアベル様のお話をお手紙でいつもしてくださるじゃありませんか」
「あぁ、うん、マリーは可愛いけど、そういうのとはまた別っていうか」
アーサーは何か言い淀むように頬をかいている。
何が言いたいのかわからず、私が首を捻ったままでいると、アーサーは少し照れくさそうに笑った。
「僕はあまり友人がいないから、少し羨ましいかなって」
ぽつりとこぼされた台詞は、どちらかと言えば客観的なもので、あからさまに寂しげでこそなかったけれど。それでも、いつも意図的に明るく振る舞っている節のある彼には、珍しく素直だ。
そしてその台詞で、私はふと、自分が彼からトーマという従者を奪ってしまっているという事実を思い出した。
アーサーにはこの後、親友とも呼べるネームドキャラを初めとした、貴族の友人が何人も出来るけれど、本当なら、トーマという存在は彼の従者であり、幼少期を共に過ごす友人であったはずなのだ。
私はテオドラと言い争っている、あったはずの未来を知る由もないトーマの横顔に目をやる。彼が私をヴァイオレットと呼び慕うように、本来ならアーサーを主として慕う存在であったはずの彼。
三年前、私が衝動的に行動したことで、彼らの人生は変わってしまった。
私がトーマと楽しく日々を過ごしている、そのぶんの割りをアーサーが食ってしまっているとしたら、その責任は間違いなく私にあるのだろう。
アーサーは兄王子との折り合いが悪く、彼自身の能力と魅力で一目置かれてはいるけれど、城の中での立場はそれほど優遇されたものじゃない。
穏やかな笑顔の裏で、私自身が目の当たりにした誘拐や、暗殺未遂を何度も乗り越えてきているようなキャラクターだ。好感度がマックスになったヒロインとの会話でそう言っていた。そんな境遇の彼から、私が幼少期を共に過ごす大切な友人を奪ってしまったとしたら、それはどんなに残酷なことか。
「ヴァイオレット?」
私の顔色の変化を見ていたアーサーが、怪訝な顔でソファに座った私を覗きこむ。
彼のことだってちゃんと友人だと思っているはずなのに、私は自分のことしか考えていなかった。幼さを残す顔に罪悪感で胸がいっぱいになる。今からでも、彼のために何か出来ることがあるのなら。
私は綺麗なエメラルドグリーンを見つめ返して、思わずその手を取っていた。
「アーサー様。私が貴方の友人になります」
「……え?」
「婚約者として……いいえ、婚約者の前に、私を貴方のご友人にしてくださいませ」
アーサーはひどく驚いたようだった。
それはそうだろう、面白味のない婚約者が突然真面目な顔してこんなこと言い出すんだから。
「友人って、ヴァイオレット」
「ええ、そして私がアーサー様の友人になれば、自動的に私の友人もアーサー様のご友人です。というわけでそこのトーマもテオドラもアーサー様のご友人ということで宜しいかと」
「ヴァイオレット様?」
「ちょっと!?」
同じように私の発言に驚いたトーマとテオドラが声を上げる。
いきなり王子殿下の友人に組み込まれた二人には申し訳ないが、私だけでは贖罪にならんので協力を求む。というか正直私はオマケ枠と考えていただいて構いませんので。二人の人生を変えてしまった責任があるので、トーマとは親交を深めていただきたいと思いますが、私としてはこう……私個人は、出来れば「そういえばそんな奴いたな」程度の程よい距離感で仲良くしていただけることを望んでおります。
アーサーは驚いた顔のまま翠の瞳をぱちぱちと瞬かせていたが、じわじわと、やがて堪えきれないというように吹き出して、私の手をぎゅっと握り返した。何がおかしいのか、目尻に涙まで浮かべて笑っている。そんなに面白いこと言ったかしら。
「君って不思議な人だな、ヴァイオレット」
「よく言われますわ」
変な奴ということなら生まれた時から言われ慣れている。
「僕の友人になってくれるなら、堅苦しい口調はよしてほしいな。それに、アーサーと呼んでほしい。もちろんそこの二人も」
「王子、ですが……」
アーサーに言われ、戸惑ったように呟くトーマ。テオドラはよっぽどアーサーが苦手なのか、またトーマの背後に隠れているようだった。
私は思った。そうそう、この二人、『ユグハー』本編では呼び捨てにしあう仲だったのよ本当なら。元ゲームプレイヤーとしてはある種感動の場面である。
「アーサー様がいいと仰ってるのだから呼びましょう。貴方なら出来るはずよトーマ。アーサー様は数日こちらにいらっしゃるんだから、その間に親睦を深めて慣れればいいわ」
「どうしてヴァイオレット様がそんな熱心に……」
「ヴァイオレットもだよ?」
「嫌ですわアーサー様ったら、それはご勘弁を」
「僕は数日こっちにいるから、その間に親睦を深めて慣れてくれれば構わないよ」
「嫌ですわアーサー様ったら、ご冗談がお上手なんですから」
うふふふふ。
あはははは。
「何なのこいつら……?笑ってないわよ、目が」
「いや、その、僕にもわからない……」
ソフィアが夕食に呼びに来るまで──
怯えた様子の従者二人は、珍しく喧嘩もせずに、私とアーサーが手を取り合って笑い合うのを眺めていた。
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