第11話 トーマ、転じる
屋敷の裏手に広がる、湖の側の青々とした草地に、ローウェン先生と並んで腰を下ろす。
ローウェン先生は私が七つになる少し前から面倒を見て下さっている、亜麻色の髪に薄水色の瞳を持った、厳格なお顔立ちの女性の先生だ。
これまでにも私には数人の家庭教師の魔導師がいたが、その内のどの先生よりも私はこの堅物な先生が好きだった。彼女は私がどんなに初歩的な氷魔法に苦戦していたとしても、現実的なアドバイスをくれこそすれ、私の将来を見限るようなことは決して言わなかったから。
授業の合間の休憩時間に、ローウェン先生に相談してみても、魔導装飾についてはすっきり解決というわけにはいかなかった。
貴族出身である先生自身はやっぱり、実家の人間が先祖代々身に付けてきた宝石を自分の持ち石にしたらしい。しかもローウェン先生は私が『闇』の魔法適正を持っていることをご存じでないから、私がさっさとクインズヴェリ家の石を身に付けないことが理解出来ない様子だった。
まぁこれまで散々出来の悪いところを見せてきた自覚はあるので、ようやく次の段階に進めるというところで足踏みするような私の発言は意味不明だろう。
「クインズヴェリ家の魔導装飾ということであれば、この国のどんな宝石より貴方の力になってくれることと思いますが」
「そうなんだけれど……」
そうなんだけど。
ローウェン先生の冷徹な言葉に、膝を抱えながら子供っぽくいじけてみせる。それはこれから先、ずっと氷魔法を使って生きていくことを前提とした話だ。
氷魔法だって少しは形になるようになってきたけれど、やっぱり闇魔法の使いやすさとは比べ物にならない。
(……どうにかして、生まれ持った力を、素質を、この先の“私”の人生に活かすことが出来ないかと思ったけれど)
この三年間だって、私はずっと、何か人の役に立てるような、伸ばす意味があると言えるような闇魔法がないか、屋敷中の書物を漁って調べ続けてきた。けれどそれらしい記述は一向に見当たらず。
この世界で闇魔法の使い手として生きていくっていうのはどう考えても現実的じゃないっていうのが、結局のところファイナルアンサーだ。
そもそも、今この国には闇魔法の素質を持っている人間があまりにも少ない。
屋敷にあった、数少ない闇魔法に関わることが書かれた書物。そこに記された闇魔法の歴史。
今のユグドラシル王家がまだ“ユグドラシル”の名を冠していなかった頃──かつてこの国で激しい王権の争いがあった時、闇魔法は、敵対する陣営の人間の暗殺や病殺を目的として使われた。その中で、闇の魔法を扱う血筋は、双方が双方に呪いを掛け合う形で失われていったのだとか。血で血を洗うような当時の様子から、闇魔法はそれ自体が呪われたものとして、人々に強く忌み嫌われるものとなった。
つまるところが、私の体に流れているのは、“呪われた血”とか何とか言われるような代物であるということだ。
屋敷で使用人に怯えられたり、遠巻きにされるのも致し方ない。
死や病を司る魔力を持った人間なんて自分から近寄りたいと思う人間はそうはいないだろうし、歴史的な背景からも闇魔法が嫌われる理由は私にだってわかるし。誰だってね、ええ、死亡フラグに繋がりそうなものは避けて通りたいですよ。だって私がそうだもの。
生まれ持った性質を隠すのは、クインズヴェリ家の名誉のため。そして、私自身がこの世界で生きていく際、逃れようもない差別や忌避の目を避けるため。
どうすることが利口かくらいは、私の頭でも初めからちゃんとわかっているのだ。
「……先生はどんな石を?」
何とも複雑な気持ちが抑えきれずに訊ねると、ローウェン先生は、私に耳元の青い石を見せてくれた。ピアスにしてるのね。
「アーサーもピアスにするって言ってたけど、ピアスにするのが流行りなの?」
「流行りかどうかはわかりませんが、この方が失くしにくいですから」
「針で穴を開けるのは痛そうだわ……」
「一瞬ですよ」
ふふ、と堅物のローウェン先生が珍しく微笑みを浮かべたかと思った、その時だった。
「ギィィェエエエエエエエエエエ!!!!」
突然、屋敷の方からビリビリと耳をつんざくような“悲鳴”が聞こえてきた。
ローウェン先生と二人、咄嗟に耳を塞ぎながら、屋敷の方を振り返る。耳栓越しかつ、今聞こえているのよりずっと小さな声量であっても聞き覚えがある、これはマンドラゴラの絶叫だ。
「何事なの……!?」
裏庭から私達のいる所までは相当距離が離れているから、流石に気絶したりなんかはしなかったけれど、耳がしびれているのか、悲鳴が消えても耳を塞いだままのローウェン先生が動揺している。
マンドラゴラは正しい手順で収穫しないと周囲の人間を失神させるほどの凄まじい悲鳴をあげる。屋敷の人間はマンドラゴラを気味悪がって裏庭には近づきもしないはずだから、誤って引っこ抜いてしまったとは考えにくい。
もし、アルタベリーの森に住む野生の魔獣が、魔力の豊富なマンドラゴラを狙って入り込んだとすれば──
「トーマ」
いつも私の畑が荒らされないよう気を張って、守ってくれている彼のことが思い浮かんだ。
もし、半獣人のトーマでも追い返せないほど強い魔獣が入り込んだとしたら。
「ヴァイオレット!?」
嫌な光景が脳裏に浮かぶ、それより前に。
ローウェン先生の叫び声を後ろに残して、私は走り出していた。
屋敷から湖に続く林道を駆け抜けて、柵を飛び越え、マンドラゴラ畑のある裏庭へと急ぐ。
庭でメイドがひっくり返っているのが見えたけど、ぱっと見た感じ、マンドラゴラの悲鳴に目を回しているだけのようだった。花壇に水やりでもしていたところ、さっきの一撃を食らったらしい。
屋敷の中の人間も何事かと表に出て来ているけれど、私の魔法植物の楽園である裏庭の気味悪さに誰も様子を見に行けないでいるようだ。
入口を塞いでいる他の召し使いの後ろから、ソフィアが外に出てくるのが見える。
「お嬢様!さっきの悲鳴は……!?」
「そこでひっくり返ってる子を中に入れてあげて!私は裏庭の様子を見に行くけど、魔獣が入り込んでるかもしれないからついてこなくていいわ!」
「魔獣って、おっ、お嬢様……!?」
お待ちください、と狼狽えて叫ぶソフィアには胸中で「ごめんね」と呟くに留め、振り返らずに走る。今は心配されてる暇がない。
「──トーマ!!」
(お願いだから、怪我だけはしていないでよ!)
そう思いながら名前を呼び、裏庭へと駆け込むと――
そこには、驚きの光景が広がっていた。
マンドラゴラの畑は踏み荒らされて、さっきの悲鳴の主だろう、小さく呻き声をあげている個体が土の上で身悶えしている。
そしてそのすぐ側に座り込んでいるのは、耳と尻尾の先が黒みがかった銀の毛並みの、私よりずっと大きな体躯の、一匹の狼だ。
ルビーのような赤い瞳がギラギラと鋭く輝き、その口には、何か鳥のような黒い小さな生き物をくわえている。牙が食い込んでいるのかポトポトと血が滴り落ちて、生き物は狼の口の中で苦しそうにもがいていた。死んではいないようだけれど、このままではいずれ間違いなく出血多量で息絶えるだろう。
思いもよらない光景にポカンと口を開けた私の方へ、鉤爪を土に食い込ませながら、銀狼が歩み寄ってくる。
口から血を滴らせた大きな獣が、筋肉をしならせて近づいてくる様に一瞬、体が強ばったけれど──私は瞬きを数度繰り返して、その狼を凝視する。……いや、何というか、正直あまりにも見覚えがあるカラーリングだったもので。
フッフッ、と鼻息も荒く近づいてきたその狼は、くわえていた生き物を私の足元にポトリと落として、私の前でお行儀よくお座りした。……まさかと思うけど。
「……………………トーマ?」
人間の返事は返ってこなかったけれど、銀狼は、「きゅ~ん」と見た目の獰猛さからは想像もつかないような高い声で鳴いた後、ふさふさの尻尾を激しく振って砂埃を巻き上げた。
▽▽▽
「……一体どういうことなんですか……?」
ふるふると震えながら、失神寸前、といった様子のソフィアが、青ざめた顔で声を絞り出す。
「わかんないけど、そんなに怖がらなくても大丈夫よ」
どういうわけだか本物の狼になってしまったらしいトーマは、キッチンの椅子に座った私の膝に顎を乗せてフスフスと荒い呼吸を繰り返していた。
よーしよしよし。横になれるようソフィアが下にマットを敷いてくれたのに完全無視で私に引っ付いてる辺り、たぶん一番本人が動揺してるんだろう。人間の言葉も話せなくなってるみたいだし。
「獣人が本物の獣になってしまうことが……?」
「ローウェン先生、こういうことってありえるのかしら」
「私の家でも数人、使用人として半獣人を雇っていますが……そういった話は聞いたことがありません」
ローウェン先生が興味深そうにトーマを覗きこむ。
基本研究者気質な人なのだ。怖がってるみたいだからやめてあげてください。
先生は私の家庭教師をしてくれているけど、それはあくまで週に一度、彼女自身の趣味をかねたもの。貴族としての自分の家での仕事もあるから、いつまでもうちに滞在しているわけにはいかない。結局、後ろ髪が引かれるような顔でそのまま帰路につかれた。夫にも何か知っていることがないか聞いてみます、とは言ってくれたけど、獣人が獣化するなんて私も聞いたことがない。果たして何か有力な情報が得られるかどうか。
それから、トーマが口にくわえていたあの生き物について。
「お嬢様、その生き物の治療もする必要はあるんでしょうか……?」
キッチンの隅から、恐る恐るソフィアが言う。
狼の正体はトーマだと頭ではわかっているようだが、恐ろしくて近寄れないらしい。
治療を受け、今はテーブルの上のバスケットの中で眠っているその生き物は、よく見てみたところ、鳥ではなくてコウモリだった。
「いやぁ……でもそのままにしておくわけにいかないし、もしかしたらこのコウモリがトーマに何かしたのかもしれないし……」
「コウモリがですか……?」
いや私だって半信半疑だけど、トーマから話を聞くまであの場で何があったかはわからないし、あのまま死なせても寝覚めが悪いし。
わふ、とトーマが何かを伝えようとするように鼻を鳴らすけど、ごめん、私に狼語はわからない。誰かバウリ◯ガル持ってきて。
「本当に、トーマは元に戻れるんでしょうか?」
ソフィアの言葉に、うーん、と首を捻る。
『ユグハー』のトーマルートでもこんなイベントは発生しなかった。強い感情で獣人としての血が暴走する、ってのはあった気がするけど、こんな風にまんま狼になるなんてのはなかったはず。
三者三様、沈黙と共に頭を悩ますけれど、そんなあっさり妙案が浮かんでくるはずもなく。
「……まぁ最悪元に戻れなくても可愛いから。このまま狼としてやってくのもアリなんじゃない?」
「わふ!?」
「お嬢様正気ですかっ!?」
「わ……私は気にしないってだけよ、トーマが嫌なら何とかして戻らなきゃね」
二人揃ってツッコまれて慌てて訂正する。
狼になっても可愛いと思っただけなのに、人でなしと思われたらたまらない。
「私は主人だし、何とかしてあげるからね、トーマ」
いつものように頭を撫でると、狼になったトーマはそれが嬉しかったのかどうなのか、そっとキッチンの床を尻尾で掃いた。
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