第100話 幕間21 ロクサーヌ
「……他の街に行こうかな」
わたしはベッドにうつ伏せになったまま、そう呟いてみた。
ベッドも硬いし、シーツだって清潔ではあるけれどごわついている。それでも、今の自分にはここが全てのようなものだ。
安い宿屋の一室で、小さくて硬いベッドと質素な机と椅子だけがある。廊下は歩けば軋んだ音を立てるし、壁は薄いから隣の部屋にいる泊り客の足音まで聞こえてくるようなところ。
それでも、子供の頃から比べれば充分な贅沢だと言える。
欲しいものはたくさんあった。
でも、やっぱり手に入らないんだろうか。
ティールームの店長さんがあいつらの知り合いだと知って、酷い無力感に襲われてしまっている。
考えてみれば、ここはレジーナの隣の街だ。レジーナは平穏で、ギルドの依頼も魔物討伐なんてほとんどないところだった。だから、ミカエル様たちがフォルシウスまで足を延ばしてくることなんて容易に想像できたことだ。
もっと遠くへ逃げればよかった。
そこで、新しい出会いを求めればよかった。
そういうことだ。
でも……何だかとても、胸が苦しい気がする。
そこで、急にドアが控えめにノックをされてわたしはベッドから身体を起こした。
「ロクサーヌ?」
やっぱり控えめに、ドアの向こう側から気遣うように声をかけてくるのはエリゼだ。
「エリゼ? どうしたの?」
わたしはそっと窓の外へ視線を走らせると、随分と陽が高くなっている時間帯なのだろうと判断した。昨日は夕食も取らず、そして今日は朝食も取らずに部屋に引きこもっている。それなのに、空腹も感じない。胸がむかむかしたまま、乱暴に髪の毛を掻き上げる。
「……いや、ギルドで姿を見なかったからどうしたのかと思って。体調でも悪いのか」
「ええ……そう」
一瞬悩んだ後、わたしは『そういうこと』にしておくことにした。「ちょっと、体調が悪くて寝てたの。心配してくれたの?」
「それは、まあ」
何だかわたしも知らないうちに、エリゼと一緒に活動することになってしまっている感じだ。強い男性が自分を守ってくれるというのは凄く安心するけれど、正直なところ、わたしが今まで付き合ってきた――利用してきた男性と比べて善良な人だから困惑もしているのも事実。
「ごめんなさい。今日は大人しく寝てるから」
「そうか」
彼が短くそう言った後、ドアの向こう側でがさがさいう音がした。紙が擦れているような音。
何だろうとわたしがもう一度ドアに目をやると、エリゼが静かに続けた。
「もしかしたらと思って、パンや果物を持ってきた。ドアの前に置いておくから、食べられそうだったら食べてくれ」
「え」
彼の図体の大きさから考えると意外なほど、その気遣いは繊細さを感じる。それと同時に、困ったな、と自分の心が警鐘を鳴らした。
「ありがとう。多分、明日にはギルドに顔を出せると思うわ」
――それに、こんなこと、もうしなくていいから。
そう言いたかったけれど、胸がつかえて口には出せなかった。
エリゼがドアの前から立ち去るだろう廊下の軋みを聞いて少し経ってから、そっとドアを開けてみる。すると、茶色い紙袋に入ったサンドイッチと、赤い果物が二個。果物の甘い香りを胸に入れた瞬間、酷い罪悪感に苛まれた。
やっぱり、駄目だと思う。
わたしは、いい人間じゃないから。
そうだ。だから、きっと神様が教えてくれているんだ。わたしに似合うような人間は、他にいるって。
わたしが望んでいるものは絶対手が届かないんだって。
わたしは部屋の椅子に座り、サンドイッチを食べながら思う。
旅費を稼いだら、フォルシウスを離れよう。一人で戦えるように、ちょっといい武器も手に入れないと。
それで。
わたしがあっさり陥落できるような、お手軽な男を捕まえて結婚すればいい。大丈夫、今より悪くなることなんてない。
そうだ、誰でもいいんだ。
そう自分に言い聞かせながら、エリゼにもらったサンドイッチが美味しくて、複雑な気持ちになっていた。
「手頃で強い武器って何だと思う?」
翌日の朝、わたしはギルドに顔を出してエリゼにそう話しかける。エリゼは壁に貼り出してあるギルドの依頼書を見つめていて、大きな背中をこちらに向けていた。わたしがそう声をかけると、少しだけ安心したような表情で振り向いて言う。
「武器? それより、体調は大丈夫か」
「大丈夫大丈夫ー。わたし、こう見えて頑丈だから」
「無理はするな」
「無理じゃないってば。それより、武器よ武器。魔物討伐で使えそうなやつがいい」
わたしは彼の横に立っていたけれど、他の人間の邪魔にならないように依頼書が貼り出されている前から退いた。そして、壁に寄りかかりながら腕を組む。
「ほら、わたしの腕ってか弱いじゃない? そんなわたしでも使えそうなやつってこと」
「ああ、確かに」
「あのさ、一応、突っ込むところだったからね?」
「何が?」
――か弱い、ってところよ。
そう言いたいけど、まあ、彼からしてみれば女なんて生き物は全部か弱く見えるのかもしれない。
これでも、人並みには……剣を振ることだってできるのだ。まあ、守られることに慣れてるから剣の腕なんか最低レベルだけど。
つくづく、以前わたしが使っていた剣が惜しまれる。あれ、よく出回っている魔石付きの剣と比べても質は高かった。アキラとかいういけ好かない女に奪われなければ、こんなに苦労することもなかったのに。
「本当は、魔道具も欲しいんだけどね」
わたしはそっとため息をついて、エリゼを見上げた。「最近、ほとんどの魔道具が街から消えたじゃない? あれ、いい迷惑だわ」
「ああ。神殿から依頼された魔道具の量が凄かったからな」
エリゼが苦笑しながら頷いて見せる。
そうなのだ。
一般的に売り出されている魔道具――たとえば、野宿用に火を起こすものだったり、衣服を洗濯するための洗浄石といったものも店先から消えている。その理由は、神殿が欲しがっている魔石が足りないから。だから、日常生活用の魔道具も解体され、魔石が流用されてしまっているんだという。
お蔭様で、防具として欲しかった魔道具も手に入らない。
「せいぜい、この程度よ、この程度」
わたしはエリゼに自分の左手を見せる。
「ん?」
「少し前に買えたやつ。防御用の魔道具」
そう、わたしの左手首には、銀色のブレスレットがついている。小さい魔石がぐるりと取り付けられていて、キラキラと輝いている。本当ならもっと大きな魔石がついているやつがよかったけれど、わたしの手持ちのお金じゃこれがせいぜいだ。
「数度使えば壊れるだろう、それ」
エリゼも魔石の小ささが気になったようで目を細めたものの、少しだけ安心したようだった。
「まあね。最悪、別の街に行って買うことも考えた方がいいのかも」
ああ、それが一番かもしれない。
口にしてからそう思う。もう今すぐにでもフォルシウスから出て行った方が――。
「とりあえず、剣を見に行こうか」
沈黙してしまったわたしを見下ろしながら、エリゼは優しく言う。「少なくとも、今お前が背負ってるやつよりはましなものが売ってるはずだ」
「……そうね」
わたしは彼に『この街を出て行くつもり』とは何となく言えず、ただ頷いた。
で、困ったことに。
エリゼがわたしに新しい剣をプレゼントしてくれた。
いくつかの武器屋を回って、女性でも扱いやすい細身の剣をいくつか目星をつけてくれた。その中で、後で攻撃用の魔道具を組み合わせればそこそこ強くなるだろうものを買ってくれたのだ。
「受け取れないわよ」
武器屋の前で立ち止まってそう言ったものの、彼は。
「一緒に活動する以上、仲間が強くなるのはありがたい」
真面目な男だ、と思いながら、受け取った剣の柄を握る。持ちやすい太さ、重すぎない剣。
「でも、もらっても何も返せない」
「見返りが欲しいわけじゃない」
「……そうでしょうね、あなたは」
苦々しく笑い、彼から目をそらす。エリゼはわたしに妹の姿を重ねている。妹が行方不明になったことを後悔しているから、似ているわたしを助けようとしているだけ。つまり、本当はわたしが受け取る理由のない優しさということだ。
すると、彼は悩んだように少しだけ沈黙した後で訊いてきた。
「何があった?」
「何がって?」
「ただ、体調が悪かったわけじゃないんだろう?」
「……そうね」
わたしは剣を胸の中に抱きしめるようにして歩きだした。わたしの後に続く、彼の気配。
「ま、よくある理由かも。失恋したの」
言うつもりじゃなかったのに、何となく冗談めかしてそう言ってみる。
失恋。
そう口にしてしまうと、確かにそうだったのかもしれないと理解してしまった。店長さんに対する想いは、まだそれほど大きいものじゃない。どう育つか曖昧で、ぼんやりとした形のままだったもの。
でも、やっぱりわたしは彼のことが好きだったんだろう。
それほど言葉を交わしたわけじゃなくても、あの微笑みに救われたのは間違いじゃない。
ミカエル様の時とは違う。自分のことも話したかったし、彼のことももっと知りたかった。少しずつでもいいから、仲良くなれたらって思ってた。
でも、告白どころか……近づくのも許されないような、あのアキラって子の知り合いだったなんて誰が思う?
「頑張って、忘れようと思って。ちょっと、しばらくは落ち込んでると思うけど、きっと大丈夫だから」
そう続けると、エリゼは「ああ」と短く言う。
彼は優しい人間だから、こんなことを言ったら慰めてくれるだろうなあとも解っていた。
事実、そうしてくれた。
「そうだな、きっと大丈夫だ」
彼はそう短く言った後、後ろから手を伸ばしてわたしの頭を撫でた。武骨な感じで、慣れてる動きじゃない。それでも、やっぱり温かくてわたしの胸が苦しくなる。
「いつか、いい出会いがある。そういうものだ」
「……そうよね」
剣を抱える自分の腕に力がこもる。困ったのは、自分の両手が塞がっていること。だから、こぼれた涙を拭うことができなかった。
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