第62話 幕間10 ロクサーヌ
黒髪の少女の目の中に、僅かな躊躇いが見えたと思った。だから、わたしは地面に転がされた状況でも可能性が見えた、気がした。
それが本当に自分の気のせいだと理解できたのは、わたしを見下ろしたままの彼女の目が一瞬だけ赤く染まったからだ。すぐにその光は消えたとはいえ、禍々しいものを秘めているのが解る。
下手をしたら、殺される。
そう頭のどこかで思った瞬間、ぶるりと身体が震えた。
「じゃあ、もう二度と会えないといいですね」
少女は静かにそう微笑むと、そっとわたしから離れて美形の男性と猫の獣人の方へ歩いていってしまった。こんな深夜の森の奥で、何の武器も持たずに一人きりということは、魔物に出くわせばわたしの命はないだろうと理解できているのに、わたしは立ち上がることすらできなかった。
嘘でしょう。
どうしたらいいの。
わたしはただ茫然と、真っ暗な空を見上げていた。
レジーナの定宿に戻ったのは、夜明け近くになった。本当に運よく、魔物には遭遇することもなかった。それとも、魔物に襲われて死んだ方がよかった?
一体、わたしがこれまで努力してきたことは何だったんだろう。
生きていくこと、のし上がること、強くなること。他人を騙してでも、自分が幸せになること、それが目的の人生だった。
自分の誕生日なんてものは知らないが、そろそろ結婚適齢期であることは解る。今を逃せば、行き遅れと言われて結婚相手の条件は下がっていくだろう。
裕福な暮らし。
それを得るための近道は、結婚だ。
剣など振り回さなくても誰かに守ってもらえて、誰もが羨む、完璧な立場の女性として生きていきたかった。
それなのに。
一番完璧だと思った王子様にはもう手が届きそうにない。
甘い夢を見ていられたのは、多分……十歳くらいまでだったと思う。
わたしは両親の顔を知らないし、物心ついた時には孤児院にいた。わたしの名前をつけた人間が親なのかどうかすら解らない。それでも、わたしの周りにいたのは同じような少年少女が多かったから別に気にしたこともなかった。
冬でも暖炉に火を入れることも許されないくらい、お金のない孤児院だった。大人になってから知ったけれど、ちゃんとした孤児院には国や貴族から援助金、寄付金が届けられるらしい。
わたしがいたところは、あまり評判のいいところじゃなかったみたいだ。多少お金が寄付されたとしても経営者の懐に消えてしまって、孤児たちには回ってこなかった。
食事は一日一食。カビたパンや、味付けすらされていないスープが与えられた。
餓死する子供も多かったし、病気になれば――ただの風邪といったものでさえ、そのまま死んだ。遺体を埋葬するのは子供たちの役目で、神様への祈りなんてものの正式なやり方は知らなくても、冷たい土の中に彼らの遺体を落とした後は、黙禱するくらいの礼儀はあった。
貴族から送られてくる絵本を使って、文字を読むことも覚えられたのは――わたしが高く売れそうだと判断されたからだったろう。他の女の子たちは、本を読む暇さえ与えられず、こき使われていた。
孤児院にいる大人たちは、他の孤児院と比べて男性が多かったようだ。というのも、まともな感性を持つ女性はここから逃げ出してしまうからだ。
孤児院の院長は、金を手に入れるためには手段を選ばなかった。男の子は奴隷商に働き手として売られていったし、女の子はどこかの娼館や変態おやじのところに売られていった。売り物になりそうにない病人は口減らしとして殺されることもあった。
そしてわたしは、それなりに可愛い顔だと判断され、多少の学習が許されたのだ。
わたしが孤児院から逃げ出したのは、仲のいい女の子がそこで殺されたからだ。孤児院の男性職員に暴行され、首を絞められて殺されるのを――わたしは部屋の隅で見ていた。
彼女の泣き叫ぶ声を今も夢に見る。
醜悪なだけの男の顔も。熊のように大きな背中も。友達を押さえつけ、抵抗されれば容赦なく頭を殴りつけたその太い腕も。
わたしは手足を縛られ、何もできなかった。声を上げたらお前の友達を殺す、と脅されたけれど――最初からきっと、生かしておくつもりはなかったんだろう。必死に悲鳴を押し殺していたというのに、結局彼女は――。
「お前は買い手が見つかったから、手を出さないでいてやるよ」
そう言った男は、下卑た笑みを浮かべながらわたしを拘束していた縄をほどいた。「お前はこいつと違って、可愛い顔をしていてよかったな。無事にここを出ていけるぜ? せいぜい美味いものでも食って、相手のお貴族様にしっかりご奉仕しろよ?」
――ご奉仕のやり方は、今、解ったろ?
男がそう続けた時、この手にナイフがあればこいつを殺してやるのに、と思った。
男という生き物は害虫みたいなものなのだ、と考えるようになったのはこの時からだった。
仲間たちと一緒に、夜の暗闇に紛れて孤児院から逃げ出したけれど、わたしたちを追ってきた職員たちから逃げているうちに散り散りになった。わたしがこうして生きているのは、ただ運がよかったから。
そしてわたしが悪賢くて、男を利用して生きることを覚えたから。
男なんて消耗品だ。使えないと思ったら捨てればいい。
それと同時に、女も消耗品だ。汚れていれば捨てられる。だから、この身を綺麗に保たなくてはいけなかった。
あのクズが言った通り、わたしはそれなりに可愛い顔に生まれたらしい。だから、気の良さそうな男にちょっと笑えば、喜んで助けてくれた。その笑顔の裏で、何を期待しているのかは解るつもりだ。でも、自分の身体を安値で売るつもりはない。
だから、弱い自分と決別するためにギルドで活躍する強い男に近づいて、剣を教えてもらった。だから万が一、男に襲われそうになってもその喉笛を掻き切って逃げるくらいのことはできるようになった。
小さな村からわたしの成り上がりは始まって、王都のギルドへ移動した。
馬鹿な男に笑いかけ、適度に媚びを売りながら業物の剣も手に入れた。一人で魔物討伐ができるくらいには強くなれたはずだった。女戦士として名前が売れたからか、言い寄ってくる男も増えた。
でも、ギルドの男という奴らは所詮は平民ばかりだ。彼らと結婚したとしても、裕福な暮らしはできない。剣を置いて、命の危険を感じずに安穏と生きていくためには、もっと上を目指さねばならない。
少しでも条件のいい金蔓を見つけるまでは、わたしは立ち止まることができなかった。
だから、ミカエル様に関わることができたのは嬉しかった。
王位を継ぐことはできないらしいが、第三王子。金も地位もある。
どうしても欲しかった。初めて、手に入れたいと思った。
だって彼は平民相手でも優しく笑いかけていたし、貴族独特の厭らしさがなかったから。
それに多分、わたしは……。
男らしい男が嫌いなのだ。嫌いというより、きっと恐れているんだと思う。
夢で繰り返し繰り返し、友達が殺されるのを見ているうちに、どうやってもあのクズに似たような、がっちりとした体形の男性はみんな嫌悪の対象になってしまっている。
だからきっと、どこか女性と見紛うような男性ではないと――無理なんだと思う。
わたしは荷物をまとめ、宿を引き払って外に出る。ムカつくくらいに空は青く、いつもと変わらない朝がそこにはあった。
わたしは移動のためにギルドに寄って馬を借りた。この馬は、別の村に行ってそこにあるギルドに返還すればいいことになっている。
仕方ないから、間に合わせの剣も買った。こんな安物の剣じゃ、魔物が出たら食い殺される。でも、もうどうでもいい。誰だっていつかは死ぬ。森の中で死んだ方が、死体の埋葬とかしなくて済むから誰かに迷惑もかけることはないし。
そんなことを考えながら、わたしはレジーナを出た。
ミカエル様にもう会わないように。あの化け物のような少女に会わないためにも。
ミカエル様以上の男なんて、見つかるはずないだろうけど、ね。
とりあえず、隣の村――というより都市、だろうか。神殿の街と呼ばれるフォルシウスに向かう。神殿の街には聖騎士団というのがいて、ギルドの仕事も少ないとは聞くけれど、今はその方が都合がいい。
お金は随分と男性から貢いでもらっているから、豪遊しなければ当分は暮らしていける。そこで、これからどうするか考えよう。
そうしているうちに、空が割れた。
それは、わたしがフォルシウスのギルドに馬を返却してすぐのことだ。
魔王とかいう奴が馬鹿みたいなことを言っている。
しかし正直、これもどうでもいい。周りの人間は随分と騒いでいたが、どうせあんな奴らと関わるのは身分の高い連中とか、王宮の騎士団とかそういうのだから。わたしには関係ないし、勝手にやっていればいい。
のんびりと宿を確保して、屋台で今夜の食事となる肉詰めのパンを一つ買う。
何もしていないというのに、適当に歩き回るだけで時間はあっという間に過ぎていくものだ。
そして気が付いたら、神殿の前にまでやってきていた。
空の色も青から赤みを帯びた夕方のものへと変わろうとしている時間帯だった。
結構前に、ここには来たことがある。神様ってやつが本当に人々を救っているのか知りたかったから。でも結局、神殿の建物を遠くから見ることしかできなかったし、神様がこの世界に存在している実感も得られなかった。
もしかしたら、神様なんて物語の中にだけにしかいないのかもしれない。
それに、神殿の中にいるのは人間だ。白装束の神官だか巫女だか知らないけど、巨大な神殿の中からかなりの人数が出てきて、何か話をしているのが遠目からでも見えた。さっきの魔王とかいう奴のことを話しているのかもしれない。
「……本当、つまらない世界」
ぽつりと呟いて、苦々しい思いを持て余しながら神殿の様子を見ていると、すぐ近くから知らない男性の声が聞こえた。
「つまらないですか? いやいや、つまらないどころじゃないですよ? 滅多に見られない、聖女様の姿まで見えるじゃないですか! 凄い、ラッキーですよ、我々!」
「え?」
わたしは困惑しつつ、その声の主を見上げた。
いつわたしの横に立ったのか解らないが、銀色の美しい髪の毛を揺らしながら、女性とも見える秀麗な顔を笑顔で輝かせている男性がいた。背が高く、痩身痩躯。顔立ちだけじゃなく、指先まで美しいと感じさせるような人。
でも、人懐こい笑みが印象的だ。
「聖女……様?」
わたしがのろのろと首を傾げて見せると、彼はこくこくと頷いた。
「そうです。あの、右側から三番目の小柄な美少女! あの方がジョゼット様、俺の一押しの聖女様ですよ!」
「そうなんですか」
そうぼんやりと返事しながらも、わたしはその彼の顔から目をそらすことができなかった。
それほど彼は――わたしが今まで見てきた男性の中で一番。
わたしがあれほど固執していたミカエル様よりもずっと、男性とは思えない容姿をしていたから。
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